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ひとりごと
バイトが休みの今日に限って、八戒はいない。
「すみません悟浄、七時から商店街役員会の歓送迎会なんです。今日は遅くなるかもしれません」
夕方からついさっきまで代わりに銭湯の店番をして、常連のオヤジ共の話し相手になってやった後、浴場や脱衣所の掃除をして…色々締め作業やってっとこれぐらいの時間になっちまうんだよな。丁度てっぺんを越えたあたり。もう起きてるヤツがいねぇのか、帰った頃には茶の間の明かりは点いてなかった。
…いつも俺がバイトから帰ってくる時は、だいたい点いてんだけど。
腹も空いたし冷蔵庫に直行。ご丁寧にラップに包まれた皿には、濃い橙色に染まったカボチャの煮物と、彩りにも気を遣ったサラダが。ふとコンロの方を見ると蓋のされたフライパン。それを開けるとうまそうな赤色をした麻婆豆腐と目が合った。今すぐにでもありつきたいところだけど、温め直す手間はさすがに省略できない。めんどくせぇ…。
…いつも風呂からあがるとあったかい料理が用意されてたりすんだけど。
一人で食うメシは味気ない。よく見るバラエティも今日はなんとなく面白いとは思えない。時間が過ぎるのすら遅く感じる。ビールはもう、3本目か。
いつもなら八戒が「今日はこんな事やあんな事があって」って聞いてもいねぇのに喋ってきたり、録画してあったドラマを見て泣いてるのを面白がってバカにしたりすんだけど。
あぁ、なんつーか…
茶の間の電気が点いてんのも、俺が帰るまでアイツが待ってくれてるからで、美味いメシもアイツが用意してくれてるからで、一人でメシ食ってて退屈しねぇのもあいつが喋ってくれるからで。…てか何時に帰ってくんの。
「遅くねぇ?」
連絡ねぇし。
と、玄関から鍵が擦れるチャリッという音。引戸が開く音。少し荒い息。
「はぁ…すみません、遅くなりました…!」
色鮮やかな手提げ袋を手にした八戒。
「来週引っ越すお向かいさん、物凄くお酒が強くて盛り上がっちゃって。三軒目まで行ってしまいました…さすがに疲れましたねぇ、ははは」
三軒目まで行った割にはちっとも顔が赤くねぇな。
「ふーん」
上着を戻してきた八戒は一度台所に寄ると冷えた麦茶を手に俺の向かい側に座り、聞いてもいねぇのにつらつらと話し始めた。
「それにしても、今のオジサマ方はお元気ですよねぇ。あれだけ飲んでもまだ行くって言うんですから。
『八戒くん!次はキャバクラ行こ!キャバクラ!』って。お店もあるしお先に失礼してきましたよ、ふふふ。あ、そうだ店番ありがとうございました悟浄、助かりましたよ。大丈夫でした?あなた煙草吸いたいーっていつも途中で抜け出すじゃないですか。我慢できたかな、って」
「ガキ扱いすんじゃねぇよ、俺だって立派なオトナだっつの!」
「ふふ、そうですね、ここの長男くんですもんね」
たまーに年上ヅラしてくるのが気にくわねぇ。麦茶で喉を潤す為に少し顔を上げる。首から鎖骨の辺りがより露わになる。コイツの無意識の色気は、正直反則。
「…あ、メシ美味かった。ごっそさん」
火照りをごまかすようにそう伝えると、表情が明るくなったのがありありと分かった。…なんだよ、お前のメシが美味いのはいつものことだし、いつも美味いとか凄ぇって褒めてる筈なんだけど。そんなに嬉しい?
八戒はその嬉しさを隠そうともせずに、空になった手元のグラスを見やって二杯目の麦茶を取りに席を立つ。酒が入ってるからか、意外と喉が乾いてるらしい。
「空いているお皿も下げちゃいますね、後はやっておきますから。あ、あとその袋の…」
皿を取りまとめようとテーブルの脇に立つから、俺はもう我慢ができなかった。テーブルに向いていた身体を自分のほうに向けて、これでもかってぐらい抱きしめてやった。
八戒の体温。落ち着く。でも、薫ってくるのはどこかで染みついた酒と煙草の匂い…いつものそれじゃないことに、俺は少し嫉妬した。
「ごじょ…」
「…帰ってくんの待ってた」
一人で過ごす時間がこんなにも物足りなくて、なんかこう…ポッカリ空いたみたいになるなんて、今まで全然なかったのによ。お前が少しいないだけでこんな感じになんのな。俺も変わったな。
八戒は俺を見上げて少し笑った。あー、反則。どちらからともなくキスをして、今度はふたりで笑った。
「俺の部屋来るっしょ?」
「えー、明日も早いんですけど…」
そう言いながら台所には寄らずに階段を昇ろうとしてるけど?
「そんな遅くなんねぇって」
「そんな事言って…一度で済んだ試しがないじゃないですか…」
うるさくすると誰か起きちまうから、もう一度その唇を塞いで黙らせた。
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