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ワンドロテーマ:「旅行」
今夜滞在する街は比較的治安が良いらしい。犬の散歩をする青年、市場に並ぶ色とりどりの果物を楽しそうに吟味する家族……住民が穏やかに時を過ごしているのがわかる。
捲簾がフリーのカメラマンとして国を出てからおよそ一年。多くの国を渡り歩いてきたが、どの国の滞在もまさに驚きの連続であった。今日のように平和な空気を味わえることもあれば、紛争地帯に近いためにその影響が如実に現れている地域もあった。命の危険を感じたことも一度や二度ではない。授かり知らなかった真実を体感する度にこれまでの知見の狭さを恥じながら、この実情を伝えることこそが己の役目だと再認識するかのように、何度もなんどもシャッターを切った。
街の繁華街の少しはずれ。安宿の、あまりスプリングのきいていないベッドに腰を下ろす。これでも上等。野宿の日や、数日前に泊まった屋根もボロボロの宿(と呼ぶにはあまりに粗末な家屋)なんかに比べたら、と捲簾はそのまま仰向けに寝転んだ。
ポケットから取り出したスマートフォンの写真フォルダ。見慣れた写真に親指でそっと触れる。いつしか自宅で撮影した家族の集合写真。あれから過ぎた月日と、二人の子供の成長に思いを馳せる。
長男はもう成人近いが次男はまだ学生であるから、そんな思春期にそばにいてやれないことをうしろめたく思わない訳ではない。家業の経営だって、きっと働き者の義理の弟が毎日ああでもない、こうでもないと頭を悩ませているのだろう。そして、自分が住まわせた居候はうまくやっているだろうか……誰かに言われでもしないと風呂にも入ろうとしないあの男は。
捲簾は起き上がっていつもの煙草に火をつけ、そんな杞憂もろとも吐き出すように煙をひと吹きした。
「メシでも行くか……」
案外煌びやかな繁華街だ。安っぽい装飾やネオン、赤い提灯なんかが無数に輝いて、その下で人々が飲み語らう。きっと裕福ではない街だけれど、賑やかで活気がある。彼の目にはとても魅力的に映った。
ふと目についた大衆酒場に狙いを定めた。この国の公用語はマスターしていないので、単語やジェスチャーでコミュニケーションをはかる。周りの客がのも珍しそうにこちらを見ている。仕事はおろか、観光客も少ないのだと、現地スタッフが語っていたのを思い出した。
しばらくして無事運ばれてきたビールと鶏肉のつまみ。グラスに口をつけようとしたその時だった。
「捲簾!」
こんなところで自分の名を知っている者なんて。声の方向に視線をやる。こちらを見つめる団体客の中心にいたのは、天蓬だった。
「天蓬! なんでこんなトコいんだよ」
「いやぁ、次回作の取材で来ることになっちゃいまして。代わりに行ってきてくださいとお断りしたんですけどねぇ」
頭をかきながらのんびりと、いつもの調子で話す。ちっとも変わらない。
「代わりにったって、お前さんが行かないと意味ねぇだろ」
「はは。まぁ、たまにはこういうのもいいもんですねぇ」
いつかの懐かしさと安らぎをおぼえながら。すると捲簾は何か思いついたようにそっと天蓬に耳打ちした。
「……あぁ、なるほど。すみません、捲簾、せっかくなんですけどこれから資料用の撮影が一件入っていまして。しばらくここにいます?」
「おう。終わったら戻ってこいよ」
「えぇ、またあとで」
席に戻る背中を見送る。ちらりと見えた横顔は少しだけよそ行きで。
さぁ、何から話そうか。写真を家族に送るよりも先に、旅の記憶をとことん語ってやるとしよう。捲簾は満足げに、泡のしぼんだビールをぐいっと喉に流し込み、口端を上げて笑った。
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