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よくできたホームドラマみたいに

 走りに行くぞ。そうとだけ言ってヘルメットを無造作によこすと、赤い髪の恋人はさっさと玄関から出ていってしまった。今から…八戒は思わずつぶやいたが、すぐに太くて低いエンジン音が扉の向こうでうなりをあげた。夜の闇の中、ヘッドランプがパッと輝いた。どうやら本当に行くつもりらしかった。八戒は観念して上着に袖を通す。何日か前の衣替えで、いちばん分厚いコートを出しておいて正解だった。
 11月なんてもう冬だ。めったに雪が降らないこの街では、秋と冬の境目を感じることがなかなか難しい。ハロウィーン、クリスマス、そういった季節の行事で商店街が賑やかになると、あぁ今年も冬が来たなと思うことは多い。あとは、店に来る常連たちとの世間話だろうか。めっきり寒くなった、暖房をつけた、昨日の夕飯は鍋にした───そういった話は毎日のようにしている。
 正直、冬にバイクはご勘弁願いたかった。八戒は寒さに弱い。ただでさえ足先も指先も冷えやすい体質だというのに、こんな身を切るような冷たい風を全身に受けて走るなど何が楽しいのだろうとすら思う。今日はぬかりなく防寒をしてきたのと、こうして彼の背中にひたとくっついていたって誰にも咎められることはないので、そう思えば悪くはないのだが。
 しかし今日は、悟浄の様子がおかしいことがどうも気になった。こんな時間からどうしたと問いかけてみても、いつもの軽口どころか、こちらを見もせず黙るばかり。八戒は訝しんだが、聞こえているのかいないのか確かめるのも無粋だと悟って、こちらも黙って彼の後ろにおさまったのだった。それから、どこに向かっているのかも、どうして走っているのかもわからないままこうして彼と遠くまで来ている。遠く、なのかすらもわからないが随分と走ったような気がするので、きっとそうなのだろう。右のほうをちらっと見やると、対向車のその向こうは限りなく暗かった。時折目に入る道端の古めかしい看板の地名で、このあたりが海沿いであるということはわかっていたので、その限りなく広がった闇が海であることはぼんやり認識した。だが、照らすものが何もなくて、そこにはまるで何もないような気もした。もうこんなところまで来た。どこまで行こうとしてるのか、今さら聞く気もない。そこまで往生際が悪いわけでもない。ただ、いくばくかの背徳感みたいなものがよぎって、八戒は彼の腰にまわした手に少しだけ力を込めた。
 それから二つ目の信号を超えたあたりの小さな駐車場にバイクを停めた。他に駐車している車はない。ヘルメットを取るとひんやりとした冬の空気が頬にふれて、潮のかおりが鼻をかすめた。耳を澄ますと、他の車の走行音の合間に波の音がした。目と鼻の先にある自動販売機を指差して悟浄が尋ねる。
「なんか飲む?」
「…あったかいものがいいです」
 家を出て最初の会話だった。


 ホットレモンティーが、じんわりと掌をあたためてくれる。ゆるやかにほどかれていく冷えと、一定の感覚で耳に届く波音が八戒の心を落ち着かせた。さて隣の恋人はというと、缶コーヒー片手に海のほうをまっすぐ見たまま押し黙っている。が、ちらちらと八戒のほうを見てもいる。しばらくそのままにしておこう。夜遅くにこんなところにまで連れ出したのだ、何かがあれば話すだろうし、何もなければないに越したことはない。八戒はお節介だが過保護な男ではなかった。(お節介と言われるのも心外だが)
「聞かねぇの」
 しびれを切らした。
「聞いてほしいんですか」
「くっそ…」
 悟浄は鮮やかな赤い髪をわしゃわしゃとかき乱すと、いつもの威勢はどこへやら、ぼそぼそと語り始めた。
「……親父とケンカした」
 悟浄の父であり八戒の義父である捲簾は、仕事の関係で滞在していた国から一時帰国している最中だった。彼は世界を渡り歩くカメラマンで、こうして帰国するのは年に一度あるかないかだ。本来なら家族との貴重な時間を楽しみにしていただろうし、八戒も彼ら親子の時間を水入らずで過ごしてくれればと思っていたのだが。父親と息子、互いに血の気は多めなので昔から喧嘩をすることは珍しいわけではなかったけれど。
「これからどうのこうの、ってよ」
「これから?」
 ケースから出した煙草を一本、指の間でもてあそぶ。
「いつまでもフラフラしてんな、ちゃんと考えろってさ。…余計なお世話だっつーの」
「はは、フリーターには耳が痛い指摘ですねぇ」
「んだよ、親父の肩持つワケ?」
 悟浄は溜息をつくと手元の煙草をくわえて火をつけた。吐き出した煙と、漂ってくるいつもの匂い。彼が隣にいるな、と感じる。バイクの後ろで彼の背中にくっついている時よりも、この匂いで心が安らいでいるのだから不思議だ。
 これから、といわれたら八戒にだって人ごとだと笑ってもいられない現状がある。恋人がこの若い甥であるということについて、彼は何度も自問した。はたしてこれは許されることなのだろうか。同じ屋根の下で暮らす家族、ましてや死別した妻の弟であるのだ。いつまでもひた隠しにしていられるものでもないだろう、それはすなわち、家族に嘘をつき続けることになるのだから。己の欲望にかまけて嘘を重ねていく罪悪感は当たり前のように彼の中に存在していて、それゆえ恋人の手を離す想像をしたことは何度もある。しかし、できなかった。頭の中でいくら別離のイメージをふくらませても、彼への愛情がそれを遮った。頭の中ですら、手を離すことができなかった。そして、八戒がそうした思いをひとり抱え込んでいる時ほど、この恋人はそれをなぜだか察知してやさしく髪を撫でるのだ。やわらかいキスをして、あの煙草の匂いがしみついた部屋で、抱き合って眠るのだ。そうして翌朝、八戒は誰よりも早く起きて、またいつもの一日を始める。今さら戻れないのだった。
「なぁ、八戒」
 悟浄の低い声が、八戒を現実に引き戻す。いつの間にか腰にまわされた右手に気がついて、じわりと熱くなる身体。
「このまま逃げちまうか」
 逃げる、とは。
「俺、お前がいりゃいいし。家とか店とか、家族とか、いろいろ考えなきゃいけねぇってわかってたけどよ、なんかもうどーでもいいわ」
 お前さえよけりゃだけど、それだけ付け加えてあとはそれきり黙ってしまった。八戒は、悟浄が人差し指でとんとん、と落とした灰が風に舞う様をただ見つめた。そして、逃げるという言葉を何度も反芻した。なるほどそういうことかと、聡い八戒は悟浄が求めている意味をすぐに理解したし、答えを導き出すのにもさほど時間はかからなかった。
「…イヤです」
「はぁ?」
 驚きのあまり口元からこぼれそうになる煙草。あたふたとしているのにもかまわず、八戒は続けた。
「あなたは僕が『そうですね、逃げましょう』とでも言ってくれる男だと思っていたんですか。だとしたらそれはとんだ思い違いですし…バカにするのも大概にしてほしいですね」
 目を丸くする悟浄をまっすぐ見つめてから。
「あの家の人たちは、僕にだって大事な家族なんです。その家族を大事にしない人とは、僕は一緒にいられません」
 花喃がいなくなったあとも自分が玄奘家に残れたのはこの家族だからだ。何のつながりもなくなってしまったはずの自分を家族だといってくれる、この家族だから。それからしばらくしてこの若い甥と恋仲になってしまったことは正直想定外だったし大いに悩んだけれど、もう戻れないなら戻れないなりにいつか打ち明けられるその日までは、ここで生きていこうと決めたのだ。隠しごとや嘘もたくさん必要だろう。また幾度となく思い悩むだろう。そうまでしても代えがたいものが、思うままに生きるよりも守りたいものが、そこにはもうたくさんあったのだ。
 まったく、ずいぶん年下なのは承知の上だったけれど。やっぱりまだまだ子供なのだなと呆れる反面、なんだか愛おしさがむくむくとふくらんできてしまう。恋人が同意してくれるものだと信じて疑わなかった悟浄の驚いた顔、そして口を尖らせて何か言いたげにしている様も、ここまでくると最早かわいらしくてしょうがない。かわいい、だなんて口走ってしまうといよいよ怒らせてしまうだろうけど。かわりに、少しだけ距離の空いた身体の隙間を埋めるように寄り添った。肩に頭をそっと乗せてやると、腰にまわっていた手がもっとこっちにと言っているのが伝わって、なおさら身体が熱くなる気がした。
「…わぁーったよ。ったく、お前らしーわ」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてねぇーっつの…」
 まずは父親との仲を取り持ってやらなくては。不器用な親子だから、きっとこれからこういうことは幾度となく起こるだろう。彼とその家族のひとつひとつをそばで見守りながら、これからもあの家で生きていくのだ。
 このいとおしい彼と、いつかむすばれるその日まで。

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