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【注意事項】
・呉永の他に捲簾、天蓬、陸央、松彰が出てきます。
・KTは呉永の上司設定で腐要素もあり(何もしてません)
・捲簾が都会のタワマンに住んでいる設定です。
大丈夫そうでしたら先にお進みください。
浮世からはなれて
目に見えるほとんどの建造物が、自分の目線よりも低い位置にある。なんて現実味のない世界だ。きっと永繕でなくても、この景色を見れば多くの人間があきらかな違和感を感じるだろう。
彼が主導して推し進めていたプロジェクトが大きな成果を残し、直属の上司である捲簾が住まうこのタワーマンションのラウンジを貸し切って、盛大なパーティーが催されていた。チームのメンバーは勿論のこと、同じフロアで日々を共にする社員達が一同に介して永繕らを労うのだ。仕事のデキる色男でお馴染みの捲簾にここぞとばかりに取り入ろうと、色目を使ってアプローチを図る者もいれば、酒のせいで涙腺が緩くなったのか、これまでの苦労を思い起こして共に涙を流す若手も見受けられる。浮世離れした華やかな会場の雰囲気も手伝い、皆が思い思いの時を過ごしていた。
主役の一人である永繕はというと、会の冒頭の乾杯用シャンパンを一杯飲み干した後、振舞われたグラスの酒に少し口を付けただけで、ほとんどそれを味わおうとはしなかった。社員達がはしゃぐ様子を横目に、併設のバルコニーへと一人向かった。
無事に結果を残す事ができた事実にあらためて安堵し大きく息を吸い込むと、ややひんやりした空気が肺を満たした。梅雨に入ったばかりのこの時期は気温が安定しない夜も多く、まだこうして涼しさを残す日もある。
それにしても、なんと高い場所だろう。何階と言っていただろうか。周囲と比較しても、おおよそ20階以上である事は想像に難くない。高層ビルや商業施設が煌々と放つ光。道なりに長く連なる赤いテールランプ。この街のランドマークの液晶時計は23時をとうに過ぎ、今またひとつ数を増やした。レジャーで人気の埋め立てエリアへと続く橋は、目まぐるしくカラフルに表情を変えている。都会の無数の煌めきはとても眩しかったし、いつもこの細々(こまごま)とした世界のちっぽけな一つとして生きているのだと思ったら、なんだかそれを見下ろしているのは少々不思議だった。
「おー、飲んでるか?」
陽気な声と共に肩を叩いてきたのは捲簾だった。その傍らには、酔いのためか頬を紅潮させほとんど開いていない目で彼にもたれかかる天蓬の姿があった。
第一クリエイティブ本部・マーケティング部長という仰々しい肩書を持つ捲簾は、それにまるで似つかわしくない、そのあけすけで誰にでも分け隔てなく接する性格と他の追随を許さない高いリーダーシップで、多くの社員に慕われている人物だ。永繕自身も彼には何度も助けられた経験があり、どうしても頭が上がらない。一方、傍らの天蓬という男は同本部の企画戦略室長という、捲簾と同等のポジションに位置する人物である。しかしその地位に史上最年少で上り詰めた優秀さと男の割にやけに綺麗な面構えをしている為に、多方面から様々なやっかみを受けることも多かった。他者と必要最低限のコミニュケーションしか取ろうとしない事も、彼が「変わり者」と評される大きな理由の一つであるのかもしれない。
足元のおぼつかない天蓬を近くのイスに座らせた捲簾が隣にやってくると、白と水色の箱をポケットから取り出して笑った。
「いい?吸って」
「…どうぞ、気にしませんので」
永繕がそう言うと、遊びを許された子供のように満面の笑みで煙草に火を付けた。
「悪ぃな、部屋ん中禁煙でさ」
ちょうど入社した頃に煙草を辞めた永繕は、社の裏口近くにある喫煙所にも近付かないようにしていたので、こうして直に煙に触れるのは久しぶりのことだった。
「っつーか、よくやったよ。あんな難易度高ぇの。やっぱお前はすげーわ」
「いえ、とんでもないです。部長にご支援頂いたお陰です」
若手がうまくやってくれましたし、と付け加えると、
「ほんっと控えめなのな。アイツに爪の垢煎じて飲ませたいわ」
と言ってすぐそこのイスで船を漕ぐ眼鏡の男を見やった。
当初、プロジェクト成立によって獲得した新規顧客とは単年契約で話が進んでいたが、永繕によるプレゼンテーションによって複数年の長期契約締結に成功したのだった。一見無愛想であるが堅実で信頼の厚い彼だからこそなし得た高い成果なのだと、捲簾は手放しで彼を褒め称えた。
「そういや、アイツまだ来てねぇの?」
永繕の同僚であり今回そのサポートを務め上げた男がいる。彼について捲簾は案じた。
「…あぁ、今日はもともとA社との会食が入っていましたので。遅れて来るようです」
「へー、長引いてんのな。ま、アイツはああいうの得意だしな」
携帯灰皿の蓋を器用に開けると、二、三度人差し指でトントンと灰を落とす。──部長は武骨で男らしい出で立ちの割に、綺麗な指をしている。
あの人のようだな、と思った。
ふと視界に入ったランドマークが、ライトアップを終えた。
永繕がラウンジへと戻ろうとする時、捲簾は天蓬の傍で水を飲ませたり背中をさすってやったりしていた。ふとラウンジの中を見ると、その様子を不機嫌な表情で見守る数人の女子社員の姿が見えたが、なんとなく見ないふりをした。既に帰路についている社員も数人いたようで、永繕がバルコニーに出る前よりもやや落ち着いた空間と化していた。夜景がよく見えるラウンジの中央に位置するソファで話し込んでいるのは、後輩社員の陸央と松彰。陸央の顔面は涙でぐしゃぐしゃに乱れていた。
「あ、永繕さぁん!どこ行ってたんスかぁ〜!俺永繕さんと話したかったんスからぁ〜〜!」
永繕の姿を見るなり真っ赤な顔を更に歪ませてこちらへ駆け寄り、永繕の肩を揺さぶるようにして熱意を全身で表現した。苦笑する松彰は「飲み過ぎるといつもこうなんです」と教えてくれた。
いつかの誰かのようだな、と思った。
そろそろ終電も近い筈、少なくとも彼らは帰さなければ。先輩としての務めが頭をよぎったのと等しく開いたラウンジの自動扉。姿を現したのは、呉斗だった。永繕にひっついていた陸央がその名を呼びながら駆け寄った。
「お疲れー。いやもう終わるだろうなと思ったけどよ、なんとなく顔だけ出したくて」
後輩達に囲まれながら談笑する彼の様子を静かに眺めていると、天蓬を抱えながらバルコニーから戻った捲簾の声が響いた。
「おぉ!やっと来たか!」
天蓬はすっかり寝に入っているようで、肩に掛けられたブランケットがずり落ちそうになっている。捲簾は俺の部屋で飲もうぜと、会食という残業をこなし尚かつプロジェクトの立役者である呉斗を促した。快諾するその横顔を黙って見つめていたら。
「お前も来るよな、永繕?」
上司からの、思いがけない誘い。一瞬瞠目したのち、喜んで、と頷いた。
明日は、何もないのだから。
エレベーターを上がった36階。居住フロアの廊下の絨毯は思いの外ふかふかとして高級感をこれでもかと漂わせるので、さすがの永繕も感嘆の声をあげるところだった。
白い壁紙と、黒を基調としたインテリア。綺麗に整頓された1LDKは、家主を表しているように清潔かつセンスも感じられる。リビングの照明は穏やかなオレンジ色をした電球色で、暖かみを放ちながらも明るさを抑えたそれはとても心地よいムードを演出していた。一方、すぐそこの寝室からはさっきのバルコニーから見た景色を更に上から望む事ができ、部長はこんな景色を毎日見ているのかと、永繕は驚きを隠せなかった。
「おい天蓬、ベッド行くぞ。ほら、もう少しだから」
すっかり眠りに落ちてしまった天蓬に、こちらが驚くほど優しく呼び掛ける。
「悪ぃな。ちょっとコイツ運んで来るわ。冷蔵庫勝手に開けていいから、先に始めてて」
そう言って隣の寝室へ消えていく彼らを、呆然としながら見送った。
「…なぁ、あの二人って」
「えぇ、少し前からそうではないかと」
顔を見合わせる。しかしこれは誰もが察せられるような難易度の低いクイズのようなもの。深く掘り下げる事もナンセンスだ。幸い呉斗もそう感じてくれているようで、それ以上話が膨らむことはなかった。できた部下に感謝してほしいものだ…思いを込めるように軽く溜息を吐いた。
まもなく「あ」に濁点がつくような低い唸り声をあげて、呉斗がソファに腰を下ろした。彼が疲れているだろうとはいえ、上司の家の冷蔵庫を勝手に開けるのも正直気が引けた。それに永繕にも、特に何も必要がなかった。さっきのパーティーで酒を味わったから、ではなくて。
座面に見える縫い目を境にして、静かに呉斗の隣に腰を下ろす。リビングの窓からは正面にそびえる別棟のマンションの灯りを幾つも見る事ができた。この手の部屋に住まう人達は、カーテンを付けない事が珍しくないのだという。きっとこの部屋も、幾つもある灯りの、そしてこの夜の輝きを構成する一つとなっているのだろう。
「いやー、それにしても上手くいったな。正直ホッとしたわ」
「貴方のお陰です。お疲れ様でした」
チームを牽引する永繕の右腕となり、苦難を共にした呉斗。少々くたびれた顔で、永繕の言葉に優しく微笑んだ。
人前ではいわゆる兄貴肌といわれる豪胆さと快活さで人を惹きつける。そんな彼が見せるこの穏やかな笑みが永繕は好きだったし、自身も彼にだけは弱音も苦悩も曝け出す事ができた。同期入社から数年、全く異なったタイプでありながらもこれ程までに信頼のおけるパートナーに出会えた幸運に、柄でもなく感謝している。
それからは今日の会食の愚痴やらを聞いたり、一応業務上の報告なども受けた。先方がひどく酒に強く、様々な種類のそれを飲んだふりでいなすのに苦労したこと、それから「仕事とは」という有難い演説が始まって眠気を抑えるのに必死だったこと、など。しかし、そんな中でも今後に繋がる話を先方から引き出して来る。いやはや、敵には回したくない優秀な男だと思う。そんなのは強みでも何でもない、と本人は謙遜するけれども。
あぁ、ひどく穏やかだ。永繕は感じていた。随分と満たされている自分がいる。騒がしいパーティーは好きではないから?豪勢な会場と慣れない景色に気後れしたから?
幾つも浮かび上がる答えはどれも、永繕の最適解ではなかった。答えを導き出せないことなど、あまりない筈なのだが。
「っつーか部長、遅くないか?」
パーティーには労いを受ける数多のものが用意されていた筈で、あんなに沢山の人間がいた筈なのに。あそこには何もなかったし、誰もいなかった。
「…永繕?」
返事がないのを不審がって隣を見やった時、白くしなやかな左手がソファの座面の境界線を越え、額を呉斗の右肩に押し付けて寄りかかる永繕がいた。
永繕は分からなかった。何故こうして呉斗に身体を預けているのか、そして何故こんなにも心地良いのかも。ただ一つ、「ずっとこうしたかった」という答えには何の躊躇いもなく首を縦に振ることが出来る。それしか確かなものがなかった。
しかしすぐ我に返る。永繕は顔を背けるように正面を向き直ったが、今しがた自分がしたことを無きものにできる訳もない。彼がこちらを見つめているのはそちらを見ずとも分かる。
「…!」
あぁ、やってしまった。呉斗はきっと驚愕しそして軽蔑しているのだと、にわかに湧き上がる羞恥心に全身が包まれた。自らの軽率な行ないを悔やみ、顔を上げることができない。心臓とはこんなにうるさいものだっただろうか。体温が上がるのも分かる。胸が、苦しい。これから、どんな顔をすれば?どんな振る舞いをすれば?
自らに、そして未来にも絶望する永繕の頬にそっと添えられた、武骨だが長い手指。向いた視線の先にあったのは、静かだが熱のこもった呉斗の眼差し。近づく吐息。
「ご、とう…?」
この身を満たす、静かな熱。浮世から遥か遠ざかる心地。せめて太陽が顔を出すまで、ここにいても許されるだろうか。
明日は、何もないのだから。
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