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やわらかい温度


『与えてくれたのは、あなただけだった。ハンドレッド』

 追い詰められた主人公の男が、遠くの思いびとに語りかけた最期の言葉。悲劇としかいいようのないラストシーン。救いなどまるでなかった。だというのに。

 それはそれは、本当に美しくてたまらなかったのだ。

 

 上映を終えたシアターから出てくる人々。表情はさまざまだ。役者やストーリーの素晴らしさを隣の友人に熱く語る姿や、ひとり静かに噛み締める姿。トレイとケイトもその波にまぎれ、バターの匂いが充満するロビーに姿を現わした。

 先週封切りになったばかりの新作映画を観ていた。CGもない、派手な演出もないヒューマンラブストーリーではあるが、並みいる大作と並んで世界数カ国での同時公開ということで、巷で話題となっている。

 主演はあの、ヴィル・シェーンハイト。ほかでもない、世界的に著名な俳優であり、ふたりの同級生でもある彼だ。

 ヴィルくんの新作だしどうしても観たいーーそう言ってケイトがトレイを引っ張って来たのだった。トレイはそこまで映画には詳しくないし、頻繁に映画館に通ったりもしない。けれど、こうして恋人(しかも、ついこのあいだ思いを通わせたばかり)に誘われて嬉しくないわけがなかった彼は、

『ケイトは新しいものに目がないよなぁ』

 などと言いながら、浮かれた心を隠して今日のこの日を過ごしている。

 近くのカフェに向かう道中、ケイトは言葉少なだった。それもそのはず、エンドロールが終わり客席の照明がともった時、ケイトの愛らしい目元からは涙の跡がうっすらとうかがえ、鼻の頭もわずかに赤らんでいるように見えたのだ。その様子にやや驚いたトレイに、感動しちゃった、と手元のストールで顔を隠した。

 彼の中で、まだ物語の余韻が続いていることは明白だ。トレイと付き合う前の彼であれば、無理をして取りつくろって、会話を途切れさせないように努めただろう。しかし、彼らに最早そんなことは必要ないのだった。トレイは隣を歩くケイトの腰にそっと手を添える。恋人は遠慮がちに、しかし安心したように少しだけ肩を寄せた。

 表通りのカフェ。ふたりの傍らには、料理よりも先に運ばれてきたコーヒーカップ。トレイはガラスのシュガーポットから角砂糖を四つ、小さなトングでつまむ。真っ黒な水面にぽとん、と落としてから、コーヒーミルクをひとつ分垂らした。ケイトが眉間にシワを寄せてカップを見つめていることに気付く。理由はなんとなくわかる。四つの角砂糖が溶けた味を、きっと想像している。

「すごい顔してるぞ」

「すごいものを見たからね……」

 トレイがマドラーを置いてから、ふたりは先ほど観た映画について語らい始めた。あらすじはこうだ。

 類まれな美貌を持つ少年・ロヴィンは周囲の人間たちの企みや欲望に翻弄され、その美貌や尊厳を幾度となく傷つけられる。そんな絶望と堕落の道をたどる彼の前に現れた男・ハンドレッドだけは、まるでやわらかい日差しのように彼をあたたかく包んだ。しかしとある事件に巻き込まれたロヴィンはついに追われる身となり、最愛の彼との別離を余儀なくされる。そして再会も叶わぬまま追い詰められ、非業の死を遂げるーーロヴィン少年が四十代で人生の幕をおろすまでの波乱の生涯を描いた作品だ。十代から四十代までを演じきったヴィルの高い演技力も絶賛され、著名な映画賞の主演男優賞候補の呼び声もすでに高い。

「ロヴィンが最初に付き合ってたさぁ……あの無職男に裏切られたシーンあったじゃん。あれはマジでやばかった。絶望しかないよね」

 ケイトは主役のロヴィンに思いを巡らせて、まるで一枚一枚ページをめくるようにしみじみと語った。

 ささやかな幸せでよかったんだよ、ロヴィンはさーーそう呟くケイトの表情は、慈しみあふれるようでもあり、とても切なげにも見えた。

 孤独や悲しみに敏感なのだと思う。昔から感情の機微に聡いひとであるから、尚更。きっとロヴィン少年の近くにケイトのような人間がいたのなら、何かが違ったのかもしれない。トレイは思った。いくら足掻いても掴むのは泥ばかり、彼方に見える光に近付こうとすると足をすくわれる……そんな人生を送ることもなく、そしてあんなにも早く命を落とさずに済んだのかもしれない、と。

 トレイは珍しく感傷的だった。フィクションの登場人物にそんな想像を並べてしまうぐらいには、彼の中にも残る何かがあった。スクリーンに広がる美しくも儚い世界が、たしかに焼き付いている。傍らのコーヒーを口に運ぶと、ケイトがパッと表情を変えた。

「なーんて、やっぱ演技うますぎだよね~ヴィルくん! オレ泣かされちゃったしさ~」

 先ほどまでの物憂げな様子をどこかに放って、弾むような声音でトレイに笑いかけた。浸りたい時はそうしていて構わないのにな、と思いながら、トレイもグリーンの瞳を見つめ返して笑った。ちょうど、店員の声とともにジェノベーゼとアラビアータの匂いが鼻腔をくすぐった。

 

 とっくに灯りを消したケイトの部屋。シングルのベッドで成人男性がふたりというのは明らかに窮屈だけれど、トレイにとっては何の問題もなかった。

 それぞれの部屋にもちろんベッドはあるが、なんとなく戯れに、今日はケイトのベッドがいいと言ってみたのだった。ケイトは『冗談でしょ~?』と言いながらも満更でもない様子だったので、そのまま勝手に潜り込んでやった。いいって言ってないけど、という往生際の悪い言葉を返されたが気にしていない。

 か細い寝息を隣に聞きながら、昼間に恋人が口にしていた言葉が頭をよぎった。

 ささやかな幸せーートレイはぼんやりと思いを巡らせる。

「(ケイト、お前のささやかな幸せを知りたいよ)」

 この恋人は、相手の幸せのためなら自分の欲望をひた隠しにだってするし、異様なまでに己を抑えつけたりもする。どうしてそこまで繕うんだ、という言葉がいつも喉元まで出かかるが、学生時代からそれを言えた試しはない。だって、すべては彼のやさしさゆえなのだとわかっているから。

 ーー俺は、お前が幸せだと思えるようなものをやれるかな。

 何も言わない背中に問う。こちらの考えていることなど知るよしもなく、聞き取れそうもない寝言を時折こぼす。どんな夢を見ていたのか、朝になったら聞いてみることにする。トレイはケイトに関するこんな些細なことでさえ、いとおしく思ってしまうタチだ。だから、自分が幸せだと思う事柄には必ずケイトがいる。

 ーー……三十歳の誕生日を迎えるケイトのそばにいたい。三十五、四十と、歳を重ねるケイトを見つめていたい。近くのものが見えづらくなったとぼやくケイトも、笑うと目尻にシワができるようになったケイトも。できるだけ永く、できるだけ近くで。

「(あとは……)」

 ーー俺が死ぬ時には、手を握っててほしい。泣いていても、笑っててもいいから。あぁでも、泣かせるのはちょっとな……

 いま、幸せといわれて思いつくのはそれぐらいだった。随分先のことで飛躍しすぎてしまったようにも思う。しかし、今までだって自分はケイトをずっと思ってきたので、それがこれからも続いていくことはなんらおかしなことではない。トレイは大真面目に思っている。

 そして何十年か先の、いつかかならず来る別れ。その時を思えば今のこの一秒さえも惜しい気がした。いや、惜しい。トレイはすやすやと眠るケイトを後ろから抱きしめる。じわじわ伝わってくるぬくもりに、いとおしさがどうしようもなく膨れ上がる。たまらなくなって、もう少しだけ腕に力を込めた。

「ん……んぁ?」

 間の抜けた声。トレイは気にするそぶりを見せない。

 察しの良いケイトはすぐに状況を理解したようで、数秒考えたのちに一度上半身を起こして、トレイのほうに向き直るようにして横たわった。トレイの腕の中にまた恋人の体温が戻る。ケイトも、自分より逞しい身体に腕を回す。より密着して、まるで互いの体温を分け合っているようだった。

「……あったかい」

 吐息まじりにそう呟くケイトの髪をなでる。はぁ、と息を吐いたあとに何か言ったようだが、トレイには聞き取ることができなかった。それでもよかった。穏やかな表情でまた眠りにつくケイトを、息がかかるほど近くで眺めていられるのだから。

「……」

 混ざり合う心地よさの中で、ふたりはゆるやかに夢の中へ溶けていくのだった。

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