この夜にふさわしい言葉なんかなくても
そう、ケイト・ダイヤモンドと付き合い始めて一年ほどになるトレイ・クローバーは、たしかに浮かれていた。気を抜いてしまえば、きっとこの浮かれ具合が滲み出てどこから見てもだらしない顔つきになってしまうだろう。そして、隣のかわいい恋人にこう小突かれるのだ。
『ね、トレイくん。なんて顔してんの』
今日ぐらいは許してほしい。平静でいられるほうが、どうかしている。
賢者の島の西側・とある港近くで開催されている『クリスマス・マーケット』にふたりは来ている。毎年十二月になると港町一帯がきらびやかなイルミネーションで飾り付けされ、埠頭に特設されたメイン会場では様々なフードトラックや雑貨店が立ち並ぶ。その華やかさと非日常感あふれる雰囲気が人気を呼び、今や老若男女が訪れる冬の風物詩となっている。
ケイトとの関係に恋人という名前が加わる前だって、本当は彼を誘いたいとトレイは切に願っていた。だが実際はハーツラビュル寮で毎日にように巻き起こる問題について頭がいっぱいで身動きが取れず、正直それどころではなかったのだ。それにクリスマスが近くなると、トレイは実家のケーキ屋の手伝いに駆り出されてしまう。だから今年こそ、ホリデーシーズンになってしまう前に、どうしてもケイトとここを訪れたかったのだ。
彼らを取り巻く環境が公私ともに穏やかに変化した今、トレイは最愛の恋人と過ごす時間のいとおしさを強く噛み締めている。
思いのほか賑わう人の波。俺から離れるなと言葉にする代わりに、恋人の左手をそっと握る。それをコートのポケットに誘い込むのは、冷え込んだ空気のせいにすればいい。ケイトがどんな表情をしているのか覗き込む余裕はないけれど、繋ぎあった指先にぐっと力が込められたのを、トレイはたしかに感じた。
「そういえばさぁ、クリスマスマーケットの噂知ってる?」
「噂? そんなのあるのか」
「知らないの~? カップルで行くと別れるって話」
何かまじないのような力が働いているわけではもちろんなく、来場者の多さから飲食ブースやショップに行列が発生、寒さにより徐々に険悪な雰囲気となり、しまいには喧嘩に発展してしまう――ということのようだった。ケイトの言うとおり、そこかしこのショップから伸びる行列はみるみるうちにどこも成長している。
「あの話の流れだったら、リドルくん達も連れてみんなで行く雰囲気だったじゃん。でもトレイくんが『新作ケーキのリサーチだ』とかなんとか言って理由つけるから、てっきりオレと不穏になりたいのかなって思っちゃった、なんちゃって」
そう、本当は寮の談話室でリドルやエース、デュースたちも含めてケイトが誘ったのがきっかけだった。せっかくだからみんなで行こう、こういうのは大勢のほうが楽しい、と。
「不穏にって、そんな訳ないだろ。冗談でもやめてくれ。オレは来年も再来年もずっとケイトと来るからな」
「えー、来年は研修じゃん」
「一日二日の休みぐらい合わせてみせるよ。なんとかなるさ」
「へぇ~……」
ケイトが先の約束に慣れていないことは、なんとなくわかる。数ヶ月先のことだってわからない生活だったのだとよく聞いていたからだ。ただトレイは、先の約束にだってケイトが心から頷くことができるように、彼へ抱く愛情や大切に思う気持ちは躊躇なく伝えていこうと思っているし、何よりそれが嘘にならないように努めなければならないと肝に命じている。きっとそんなことを言ったら重いだのなんだのと言われてしまうのだろうが、本人はいたって真面目なのだ。
「でも、もしかしてお前……」
「ん?」
「これからも俺といたいと思ってくれてる、ってことでいいか?」
噂が現実になるのが嫌だから、みんなで行こうって言ってたのか、あんなに――そうささやいてやると、
「え? いや違う、っていうか違わないっていうか……」
「はは、でも嬉しいよ。お前の気持ちが知れて」
「……はー、いい性格してんね! あ、ねぇアレ食べたい」
ケイトが指差したのは、ごろんとした牛肉をふんだんに使ったビーフシチューの看板だった。拗ねてみたり目を輝かせてみたり、ころころ変わる表情はいつもより忙しい。かわいいことこの上ない。
「そうだな、あったかいものでも食べようか」
つないだ手にまた力を込めながら、ふたりは白い息をはずませた。
それからはいくつかのフードを堪能したり、リドル達への土産を探してみたり。そして日頃『映え』を求めてカメラのシャッターを切るケイトはもちろんのこと、トレイのスマートフォンのカメラロールにも、いくつもの新しい写真が増えた。言わずもがな、傍らで今日を楽しむケイトの写真も。
ショップが立ち並ぶエリアの奥に足を向けると、荘厳な佇まいの時計塔にたどり着いた。時計塔の前方は華やかな雰囲気にふさわしいフォトスポットになっていて、多くの客が思い思いに記念写真の撮影に興じている。
塔の内部については普段から一般公開されており、長い歴史を感じさせる重厚さとステンドグラスの彩りがとても美しい。中央に位置する螺旋階段の先にあるバルコニーからの景色は、とりわけ多くの観光客に人気だ。今は夜であるため海側は真っ暗闇になってしまうが、それでもこのイルミネーションや店のきらめき一つ一つがすばらしい輝きとなってその目に映るだろう。
バルコニーは人もまばらだった。数組いたカップルやグループはふたりと入れ違うように螺旋階段を降りていく。賑やかな話し声もやがて聞こえなくなった。会場を彩るBGMが遠くに聞こえる。ささやけば届くような静寂。
トレイは、ケイトの腰に右手をそえて引き寄せた。ケイトの重みと体温。周囲には誰の姿もない。会場を見下ろすケイトの横顔を見つめる。すっと伸びた鼻梁、くるんと上がった睫毛、ゆるい曲線を描く髪は今日もしなやかだ。
高鳴る鼓動を見透かされないよう、きわめて平静を装って。
「ケイト」
振り向いたケイトにぱちりと視線を合わせ、髪にそっと指をさしいれる。何か言いたげなケイトの唇は少しだけ開いたが、言葉を紡ぐことはなく、白い吐息だけが漏れた。なぜだろう、その唇がうるんで見えるのは。ぼんやりと辺りを照らす街灯のせいだろうか。
ケイトは瞼をおろした。トレイは彼の唇に一度目を落としてから、ゆっくりと顔を寄せた。鼻先が触れて、吐息の熱が混ざり合って、それから――。
「もうエミリーったら、走らないの!」
「ママ早く来て! キレイだよ!」
ひとけのなかったバルコニーに響いた親子の会話。トレイとケイトは一瞬にして互いの距離を遠くして、夜景を見下ろすただの来場客となった。また別の意味で心臓がうるさいし、一気に体温が上がってしまった。親子の後ろには何組かのカップルが続いていて、バルコニーはあっという間に人の気配で満たされた。
ふう、と短い息を吐いてから、
「そろそろ行こっか」
ケイトがいつもの笑顔でそう投げ掛けた。
「……あぁ、そうだな」
リドル達への土産としてクリスマススイーツもしっかり調達してはいるが、外出届に書いた帰寮予定時刻に遅れるようなことがあってはいけない。ふたりは螺旋階段を降りていく。ゆったりとした足音を奏でるのは、あふれんばかりの名残惜しさだ。
あぁもう、このままどこか、ふたりを知る人のいないところへケイトを連れ出せたら、どんなにいいか。つかの間の夢。はじけた泡沫。明日からまた、いつもの騒々しい日々に帰るのだ。
「待って、トレイ」
階段を先に降り切り、出口へと足を向けたトレイのコートの袖を掴んだケイトは、そのまま少しだけ背伸びをして、恋人の唇に自分のそれを重ねた。
「……また来ようね」
ほんの一瞬のふれあい。しかしやわらかいその感触は、じんわりと熱を持って残る。
動揺と喜びと、それからとめどなく湧き上がるいとおしさがトレイを満たした。今の彼にできることといえば、恋人の言葉に続く洒落たセリフを口にすることではなくて、頬を赤らめてはにかむ恋人をありったけの力で抱きしめることだけだった。
「ふふ、トレイくん痛いってば」
どこかで始まったハンドベルの演奏が、まるでふたりの未来に祈りを捧げるようにやさしく、それでいて力強く鳴り響いた。