きみのいない朝を知らない
別れの季節になりました。リビングのテレビから聞こえてきたアナウンサーの声に、ケイトはどの記憶を呼び起こすべきか一瞬迷った。ほんのり草の匂いがし始める春も、日差し照る夏も。かさかさと枯葉を踏む秋も、すべてを白く塗りつぶす冬も。そこにはいつだって別れがあったから。
思い出は雪みたいに積もっていく。会社の先輩が煙草を吸いながらそう言っていた。何かの本に書いてあった、だったろうか。生きている年数に比例して深度を増し、たまに誰かと語り合ったりしてそれを踏み固めては強くしていく――美しい時間を過ごしたのだとノスタルジーに浸り、自身を癒しなぐさめる――そういうものなのだという。ケイトにはあまりよくわからなかったが、ほとんど空になった缶コーヒーを煽りながら曖昧に返事をしたことだけは覚えている。
どちらかといえば彼には細切れの記憶がいくつかあって、一年とか二年とか比較的長く滞在した土地の記憶がそれにあたる。
――思い出す必要のない記憶なんて、次から次へと消えてくもんだよ。
思い出す誰かがそこにいてはじめて、埋もれかけていた記憶はじわじわと実体をなす。しかしケイトと思い出を共有する誰かなど、いつだってすぐそばにいたことはなかった。
だから、研修を含めて四年間在籍したカレッジ時代のことはよく覚えている。付き合って二年半になる恋人のトレイとはそこで出会い、友人たちともたまに顔をあわせたりする。
翌朝ケイトが目を覚ましたのは、まだ街が動き出す前のようだった。鳥たちのさえずりを、通りすぎていく車の音が時折かき消す。ベッドからそっと降りてカーテンをめくると、もうすぐ太陽が顔を出す気配があった。
ゆうべ眠りにつく前、出会いは別れまでがひとつだよとケイトは言った。なんの話をしていたんだったか。こないだふたりで観た映画、いや、誰かから聞いた失恋話か。ベッドサイドランプのぼんやりとした灯りの中で、枕に頬を預けながらそんなことをつぶやいた。それを耳にしたトレイは、まるで信じられない、という顔をしてこちらを見つめた。眼鏡を外してあらわになった眉間に皺が寄った。小首をかしげてもいた。
「離れないためにできることがあるなら、俺はなんでもするけどな」
「なんでも?」
「だって、いつか離れるために一緒になったわけじゃないだろう」
ケイトは、誰かとのしあわせをうまく描くことができない。恋人がいながら、いまだにそれは変わらない。そうたやすく変わるようなものでもない。でも。
はじめまして、さようなら。はじめまして。次のさようならを、まだ知らない。いつもすぐそこにやってきた誰かとの別れ――そして、いつか来るはずのトレイとの日々の終わりが、まだ見えない。
この夜明けのうすいうすい水色みたいな、どこまでも薄めた絵の具みたいなほんのりとした別離の予感をひそかに抱きながらも、彼の中に芽吹くほんのわずかな抗いが彼自身をこの場所に押しとどめる。
ケイトはベッドへと戻る。体重をかけるとやや軋んだ音がして、寝息を立てていたトレイがこちらに寝返りを打った。自分より大きな身体をしているが、この無防備なありさまは純粋無垢な子どもみたいにも思えた。癖がついてあちこちを向いた短い髪をそっと撫でてやる。するとケイトの身体はまるごと包まれるようにして、そのたくましい腕にとらえられた。
間近に匂い立つ恋人の体温は、別れの気配をかき消していく。ケイトの中にいつまでも存在する靄がかったようなそれを音もなく薄める。こりずに何度も何度も形をなしたり、むくむくと湧き上がったりするけれど、じんわり解ける氷のようにだんだんと小さくなって、すうっと吸い込まれてどこかに消えていくのだ。
トレイにふれるたび、見つめ合うたび、言葉を交わすたび。
もうすこしの間、この温かさに足をとられていたい。この体温を言い訳にして、まだここから離れられないんだ、だからまだここにいてもいい筈だ――そういうことにして、とぼけていたい。
お別れやおしまいもまだわからない、さようならをおぼえる前の子どもみたいに。