逃げろ!!卜レイ・ク口ーバー
逃げろ、逃げろ、全力で走れ! 右手に握りしめたこの一枚の紙を守り抜き、願いを成就させるんだ。
卜レイ・ク口ーバーは全速力で駆けていた。荒い呼吸、乱れるフォーム、そしてずり落ちる眼鏡を何度も直しながら、ただ一心不乱に駆けていた。何もかも、もうとっくに限界を迎えているはずだった。すれ違うものは皆、彼の必死の形相に思わず振り返った。一体こんな夜更けにどこへ向かおうというのだろう、おかしな人。誰もがそんな感想を抱いて、数分後には覚えてすらいない。それはまるで、一瞬にして過ぎ去る疾風のようでもあった。
トレイ・ク口ーバーを追うのは、恋人のケイ卜・ダイヤモンドだ。
交際して六年、そのうち同棲期間は四年にもなる。世界で最も大切な、何ものにも代え難い最愛の恋人。一生を共にし、いつか老いて命尽きるまでそばで生きていきたい人。彼への愛は、NRCで出会い恋に落ちたあの日から少しも変わることはない。今だってそうだ。こうして走り続けている最中も、思考の大半を占めるのはケイト・ダイヤモンドその人のことばかり。矛盾しているようだが、最愛のひとだからこそ、彼はいま全力で逃走している。話は数週間前に遡る。
「ケイト、俺と結婚してください」
食卓には自ら腕を振るった料理の数々。酒に詳しい知人に教えを請うて選んだ、ケイト好みの白ワイン。そして、自宅のリビングだというのにパリッと糊のきいた白いシャツでめかしこんだトレイ。
実はこれが三回目のプロポーズになる。過去二回とも、ケイトは差し出された指輪を見つめて、しばらく黙ったままだった。重い沈黙はまるで永遠のように感じられた。トレイが想像していたプロポーズとはまったく違っていて、時間が過ぎていくにつれて脳内には焦りと疑問符が次々に湧いて出てきた。
しばらくしてケイトがためらいがちにこぼしたのは、ごめん、という一言。落胆を必死に抑え、ごく自然に振る舞ったあの状況は今でもたやすく思い出せる。
そして今、決意の三回目。トレイはただシンプルに、何も飾らずその思いをまっすぐに伝えた。覚えのある沈黙に不安が一瞬よぎったが、ケイトの瞳はきらめいていた。
「はい。これからもよろしくね、トレイくん」
「ケイト……!」
ーーあぁ、やった! よかった! 本当に、よかった……人生最高の日だ! これからもケイトのそばにいられる。夢じゃないよな? 断られてから何度も夢に見たんだ、こうやってケイトが頷いてくれるのを!
「泣くなって~、ってか家なのにすんごい気合いれてんのウケんだけど」
「うっ、しょうがないだろ、嬉しいんだよ……」
そうしてふたりはつい飲み過ぎてしまって、同じベッドで動けない朝を迎えた。
そんな幸せなひとときを経て、ふたりはとある問題に直面していた。仕事のスケジュールが合わず、連れ立って婚姻届を提出しに行く予定が立てられない、というものだった。どちらか一方が出すのでも構わないケイトに対し、大事な書類だからふたりで行きたいというトレイの主張がぶつかり、なかなか決められずにいたのだ。
「気持ちはわかるけど、それじゃあいつまで経っても出しに行けないよ?」
それはわかっている。トレイだって一日も早くケイトと正式な家族として認められたい。彼は記念日だとか、誕生日だとかそういった節目を忘れないし大事にしたい男だった。なので、こういったある種の儀式めいたことにはこだわりたい。
しかし、ここでわがままを言ってもしょうがない。大事なのはその先、末永く続くケイトとの結婚生活なのだ。
じゃあ俺がいくよ。トレイがそう言うと、聞こえてきたのは間延びした返事。
「はぁい。よろしく」
ケイトにはあまりこだわりがないのだろうか? トレイはなんとなく感じている自分との温度差のようなものに一抹の不安を覚えた。
トレイ自身は、この最愛の恋人と晴れて結ばれるんだと世界中に言いふらしたいぐらい、ケイトが好きで、大切で、いとおしくてたまらないのに。
彼の不安は的中した。聞いてしまったのだ。
それは仕事から帰ったとある夜、ケイトの部屋から聞こえてきた声。誰かと電話しているようだった。
「うん、そう。そう言ったはいいけどさー、正直迷ってんだよね。本当にいいのかなって」
ーー何がだ? ケイトが迷っていること? 何か悩みがあったのか?
「だとしたら、トレイに言わなきゃいけないね……」
まさか。
目眩がした。風邪以外に病気もしたことのないような健康体の彼、くらりと揺らいだ視界に平衡感覚を失って思わず壁に手をついた。
ーーケイトは、俺との結婚を迷っているのか? いや、あの時たしかにうんって言ってくれたよな。あれからやっぱり不安になったのか? それとも、三回もプロポーズしてくる俺のしつこさがまずかったのか? ケイトの心の準備ができるまで待てばよかったんだろうか……。
疑問をどれだけ並べたところで、誰も答えてくれるわけではない。その答えを知るのはケイトただひとりなのだから。
トレイはダイニングの椅子に腰掛け、ひとつ深呼吸をした。今はまず、落ち着かなければならない。数分したのち、彼は棚の引き出しを開け、透明なファイルに入った書類をそっと取り出した。記入済みの婚姻届だ。
ふたりの名前。出身国。証人欄に書かれているサインは、幼馴染のリドルとNRC時代の恩師デイヴィス・クルーウェルのものだ。それぞれの個性的な筆致でたしかにそこに存在し、この門出を祝福してくれている。
『ボクも自分のことのように嬉しいよ。本当に嬉しい。あの頃、ずいぶんとキミたちの手を煩わせてしまったから……どうかお幸せにね』
リドルに結婚報告をした時のことはよく覚えている。ぱっと輝いた表情を見せたあと、昔を思い返したのか、ひとつまみだけ侘しさを加えたような顔をした。そうしてから穏やかに笑った。誰もがみな大人になったのだ。しかしそれでもまだこうして向き合って言葉を交わしていられることに、トレイは何か満たされるような心地がした。
トレイは今朝のケイトとの会話を思い出した。挙式の話も少しずつ決めような、という言葉に気が早いよと彼は笑ったが、
『トレイくんが泣くに三百パーセント賭けてもいいよ?』
トーストにバターを塗りながら、あんなに楽しそうに話していたというのに。
いや、何かの間違いだ。そうに決まっているーー人は信じたい事柄を証明する事実だけを肯定する。トレイにとって都合のわるい事実も存在していたのかもしれないが、今の彼はそれを細かく思い出せるだけの冷静さを持ち合わせてはいなかった。
背後でドアが開く音がした。我に返り、手元のファイルを思わず後ろ手に隠す。いとしい恋人はいつもとなんら変わりがなかった。
「あ、トレイくん帰ってたんだ! おかえり」
「お、おぉ、ただいま。早かったんだなケイト」
「うん。夜に入ってたアポイントがリスケになってさ」
こうしてふたりが夜に顔を合わせるのは久しぶりだった。
「何してんの? 上着脱ぎなよ」
「あぁ、そ、そうだな」
「夕飯食べるの待ってればよかったなぁ。トレイくんのはあっためとくから」
お風呂入っちゃいなよ、とケイトが言い終わらぬうち、トレイの手元のファイルから一枚の紙が滑り落ちた。注がれる視線。
「あ、それーー」
まずい。トレイは反射的にそれを掴み、一目散に玄関へと向かった。履き慣れた白のスニーカーと共に、あっという間に外へ飛び出した。
「え、ちょっと! トレイくん待ってよ!」
夜の住宅街。一人の男が全力で駆け出した。
人の合間を縫う。散歩中の犬が警戒して甲高い声で吠える。立ち並ぶ街灯を何本も過ぎる。走り続ける自分の影が、浮かび上がっては流れていく。
とっくに陽の暮れた街。駅から吐き出される人がほとんどであるこの時間帯で、彼のように逆流して道を行く姿(しかも全力疾走で)はすこぶる目を引いた。曲がり角では危うく自転車とぶつかりそうにもなった。
彼の足は、この街の役所に向かって絶え間なく進んでいる。家からはだいたい歩いて二十分ほどなので、全力を出せばおよそ十分前後で到着するはずだ。そう、彼はこのまま婚姻届を提出するつもりだ。
しかし衝動的に家から出てきてしまった。さぞかしケイトは驚いているだろうと、だんだんと申し訳なさが募った。結婚を不安に思っているかもしれないケイトを置いて婚姻届を出しに行くなど、いわば力技みたいなものだ。強引だ、信じられないーーそう怒らせてしまうかもしれない。
だがトレイは足を止めようとはしない。
ーーケイト。すまん。帰ったら、怒ってくれ。だけど、お前もどうか覚悟を決めてくれないか。絶対に、絶対に幸せにするから。
役所まであと数分、あの角を曲がればすぐそこだというところで、背後からほのかな魔法の気配を感じた。それは徐々に濃度を増して、こちらに近付いてくる。この感覚には覚えがあった。
「トレイ!」
夜空に響いたのは、箒に乗ったケイトの叫び声だ。見慣れたオレンジ色の髪が風を受けてたなびく。まるで突進してくるような勢いだ。動揺してスピードを落としかけたトレイだったが、残りの力を振り絞って最後のコーナーを曲がった。役所の門を通過する。明かりが灯る夜間受付窓口。そこだけを目指す。階段を一段飛ばしで右足、左足、右足ーーその時、無情にも靴の先が階段の段差のへりに引っ掛かり、彼は前のめりで派手に転倒してしまった。
まもなく到着した恋人の声が、焦りを滲ませながらもう一度この名前を呼んだようだった。そして心配そうにこちらを覗き込んだ。
あぁ、ケイト。わざわざ追いかけてきてくれるなんて。
「なんで置いてくんだよ! びっくりしたじゃん!」
ケイトはすでに怒っている。無理もない。
「すまん……返す言葉がない……」
ゆっくりと起き上がったトレイはその場に座り込んだ。ケイトも視線を合わせるようにしゃがみ込む。
「ねぇ、あんなにふたりで行きたがってたのに、なんで?」
トレイの手元のクリアファイルに挟まれたそれを見て、ケイトは心底不思議そうに、だがきわめてやさしく問いかけた。
最愛の恋人に見つめられて、嘘をつこうなどとは思わない。つけるはずもない。自分勝手な行動を自覚することは恥ずかしいことこの上ないが、トレイは腹を括った。
ケイトが本当は結婚に乗り気ではないのではないかということ。正直迷っている、という言葉を聞いてしまったこと。そして、それをわかっていながら強引に書類を提出しようとしたこと。
「子供みたいなことをしてしまったと思ってる。本当に、ごめん。お前が不安に思ってること、ちゃんと聞かなきゃならなかった」
頭を下げるトレイの声はか細くなっていって、ぼそぼそと頼りなくケイトの耳に届いた。しゅん、と肩を落とし意気消沈する姿は、頼り甲斐のある恋人のいつもの面影をすっかりなくしていた。
当のケイトはといえば、眉間にシワを寄せて何やら考え込んでいるようだ。首を傾げたり、顎に手を当ててみたりしている。
「迷ってる……? それってもしかして、さっきオレが部屋で電話してた時の?」
トレイがそうだ、と返すと、ケイトは事もあろうにふっと吹き出して肩を震わせ始めた。そしてしまいには大笑いだ。意味がわからない。だが抗議するトレイに返ってきた言葉は思いもよらぬものだった。
「トレイくん、オレはもうとっくに決めてるんだからね」
「え……?」
さぁっと血の気が引いたような表情を見せるトレイに、いや違うよ、と断ってから。
ふたりで暮らし始めて少し経ってから、トレイとの末永い将来を考えるようになった。恋人になった当初には正直思い描けなかったことが、ふたりでの暮らしを重ねていくうちにだんだんと形を成してケイト自身の中に浮かんでくるようになった。ただ二回目のプロポーズまでは、それに一歩足を踏み入れる決心がついていなかったのだ。戻れないのだと思うと怖くなった。しかし今はもう、そんな不安もおそれもどこかにいった。
もう迷ったり躊躇ったりするのはやめようーーそう思えるようになったのは、その後も積み重ねてきたトレイとの日々があったからだ、と。
「返事したのにやっぱナシだなんて、オレがそんな往生際の悪い男だと思った?」
「いや、それは……じゃあ『迷ってる』っていうのはなんなんだ?」
しょうがないなぁ、とでも言いたげに、しかしやや楽しげにケイトは肩をすくめた。
「仕事。共同プロジェクトで一緒になった同業に、来ないかって言われてさ。大手だし待遇もけっこう良くて。でもウチの会社、中小企業で給料はそこそこだけどやりがいあるから、どうしようかなぁって思ってたんだよね」
いずれ本社勤務にはなるがまずは支店配属だと聞いていたため、自分だけ拠点を移すことになればトレイに話す必要があるーーということだった。
全身の力が一気に抜ける。深い深い安堵がトレイを包んだ。
「そういうことだったのか……早まったぁ……」
「へへ、安心した? ちなみにその話も断るから、遠距離結婚しなくてすむよ」
「そんなことになったら、俺も一緒に引っ越すから心配するな」
驚きの声をあげて、ケイトが笑う。当たり前だろ、とトレイも笑った。
ーーなんだ。言わないとわからないって、ちゃんと話さないと本当のことはわからないんだって、大事なことを忘れていた。
ケイトへの思いが大きいあまりに、衝動的過ぎる行動に出たことをあらためて深く恥じた。そして何より、自分が思うよりもケイトはこれからのふたりの生活をみつめてくれているのだと教えてくれた。胸の真ん中が、じんわりと満たされていく。
「……こんばんは、どうされましたか?」
濃い色のブルゾンを着て、懐中電灯を持った中年の男性がこちらに問いかけた。夜間窓口の職員と思われる。夜更けにこんなところで談笑しているように見えたのだろう。怪しまれてしまってもしかたない。
トレイはひとつ咳払いをした。そしてたしかな声音で、はっきりと告げた。
「婚姻届を、提出しに来ました」
係の男性はやわらかく微笑んで、おめでとうございます、と若いふたりを祝福した。