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きみはどこを見てるの


 

 トレイが夢に出てきた。別れた男が出てくるなんて、何かの兆しなのだとしてもあまり趣味のいいものではない。ケイトは思わず溜息をついた。そもそも自分から別れを切り出したのだから、ヨリを戻したいだとか未練があるだとか、そんなことはないはずなのに。しかしなんとなく気になってしまって、ケイトは彼と交わしたメッセージアプリの履歴を見返していた。
 特別な言葉など何もなかった。むしろ、一行で終わるような簡単なやりとりを必要なだけ交わしていただけだ。それから会って目を合わせれば、伝えたいことや抱えきれないようなことが勝手に口からあふれ出てきたものだった。
 夢の中の彼は妙にリアルでケイトを戸惑わせた。まるで記憶の中にある彼の断片をかき集めて具現化したみたいに、口にしそうなセリフ、容易に想像できる動作をして、さも当たり前だという顔をしてケイトの隣に存在した。そして、滅多に荒げられることのない低めの穏やかな声で、自分の名前を呼んだり笑ったりした。
 彼とは親友であり恋人で、恋人であり親友だった。およそ一年前に恋人という立場を手放してただの親友という関係性に立ち返った時、ケイトは彼の連絡先や写真や何もかもを消し去ってしまおうと決めていた。
 心や身体のほとんどをさらけ出してしまった相手に、恋人になる前と同じように接することができるとは到底思えなかった。知らない部分や見えていないものがあるからこそちょうどいい距離感でいられる、ということをわかっていたからだ。ふたりでいる時の心地良さだって、恋人としてのそれはもう必要がなくなった。しかしそれを経てしまった今、親友としての心地よさには二度と戻れないことを、誰に言われるでもなくケイト自身が肌でしかと感じていた。
 そうまで思っているはずが、彼は日々の忙しさにかまけて(おそらく、そう)後回しにしている。手元に残る別れた男の残骸に、何ひとつ触れられないでいる。
 別れ話をした午後のリビングはやわらかい日差しがさしていたのに、ダイニングで向かい合うふたりの間にはさめざめとした空気が漂っていた。別離を告げられるなどとはつゆほども思わずに、いつもどおりにトレイが淹れてくれた紅茶はすっかり冷え切っていた。そのせいか口の中がざらついた。最後なのだから美味しいまま味わえばよかった、と思いながら一気に飲み干した。最後の最後に後悔を残すなんて、やはりうまくは生きられないものだと思った。
 ケイトが別れを切り出したその時、トレイは一瞬目を丸くしてケイトから目をそらし、いくつかまばたきをした。落とした視線がそのまま空をさまよっているのは明らかで、どうかその視線ごと、彼の気持ちがしずかに着地してくれたらとケイトは何も言わずに待った。
『……そうか』
 聞かれたことにはすべて答えた。他に好きな人ができた訳ではないこと。トレイのことを嫌いになったのではないこと。数ヶ月ほどずっとひとりで考えて、答えを出したこと。
 どうしてか、別れの本当の理由を問われることはついになかった。
 離れてから連絡は取り合っていない。学生時代ほど更新しなくなったケイトのマジカメ投稿に、トレイが反応する時はある。だから、自分を振った相手になど関わり合いたくないだとか、そういったことはないのだとわかる。いっそ嫌ってくれてもよかったし、そのほうがお互いのためだったかもしれないと思うこともあったが、ネガティブかポジティブかに関わらず、特別な感情を持たないことがきっといちばん良い。関心の濃さはいつだって執着になり得るから。
 支度をするまでにはまだ時間がある。それをいいことに、ケイトはベッドに横たわったままスマートフォンの中の写真フォルダをスクロールし続ける。いつだって絶品だった、彼が作った料理。『撮られるのは苦手なんだ』と言っていたからおのずと増えた、後ろ姿や横顔。ふたりで訪れた旅行先の美しい景色。彼がいた日々の跡をたどるように。
 そうしている最中、本人からのメッセージの通知が画面上部に現れた。まさか来るだなんて思うわけがないケイトは本当に驚いてしまって、わっ、と思わず声がもれた。
『今、仕事で○○に来てる』
 隣町の名前だった。来てる、ということはこの一年の間にどこかへ引っ越したのだろうか。浮かび上がった疑問を飲み込んで、ケイトは会話に応じることにする。
『へぇ、いつまでいるの?』
『あいにく、明日には移動しなきゃならないんだ』
 なんだ、じゃあなんで連絡してきたんだよーーそんな感情が湧き上がって、ケイトはそれを打ち消す。これじゃあまるで、会えずにがっかりしているみたいじゃないかと。
 今この瞬間、少し足を伸ばせば届くような距離にいる。そう思ったら、返す言葉を急に見失ってしまった。指が画面上で行き場をなくす。そうしているうちにまた飛んでくる言葉。
『先月誕生日だったよな。おめでとう』
『一ヶ月前だけどね? ありがと』
『パートナーにちゃんと祝ってもらったのか?』
『いないよー、そんなひと』
 ケイトは可笑しくなって、思わずふっと笑みをこぼした。こういう会話を知っている。何かのスパイスみたいにぴりっとした皮肉が半分と、その奥に隠した甘い砂糖みたいな思惑がもう半分。分かりやすすぎるのだ、あんなに器用なはずなのに。でもトレイとの間にはもうそんな甘ったるさは必要ないことも、ケイトは知っている。
 流れるようなやり取りが、ぴた、と止まった気がした。
 少しの間があったあとに。
「来月、またこっちで仕事があるんだ。今度は数日滞在する予定だから、久しぶりに飲まないか?」
 ーーああ、そう来たか。
 ケイトはほんの三秒ほど考えただけで、至極短い、ほんの一文だけを打ち込んだ。
『いいよ』
 承諾を示すスタンプを添える。こんなにあっさりと承諾して、トレイにとっては拍子抜けだろうか。思ったよりも案外うまくいきそうなものだな、と思われただろうか(彼が何かを意図しているかは定かではないが)。
 これはただの約束だ。学生時代からの親友とおよそ一年ぶりに再会する、ただのたわいない約束。だからイエスと言った。そう、これは深い意味などないライトなやり取りで、何の隠し味もない。少なくともケイトにとっては。
『ありがとう。嬉しいよ』
 ーーそういうのはさ、オレにじゃなくて女の子とかにやんなよね。
 嬉しい、という言葉の奥に思いを馳せてしまわないように、ケイトはスマートフォンを枕のそばに放った。
 恥ずかしげもなく、相手へ好意的な言葉を投げかけるきらいがあるのは、相変わらずなのだなと思った。そこに恋愛としての何かが含まれていなくてもだ。ケイトがそれを指摘したなら、きっと不服そうにこう返ってくるだろう。
『本当のことなんだからしょうがないだろ』
 トレイのそういうところが、ケイトにとってはくすぐったくもあり、しかし何よりもいとおしかったのだ。
 それも紛れもなくケイトの本心ではあるけれど、トレイ本人の耳に届くことは決してないだろう。会う約束をした来月も、その先もずっと。
 ケイトが自分の奥底にあるぼんやりとした何かに、見ないふりをしているうちは。

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