top of page

春がくる

 からになったワンルーム。ケイトは今日、二年間だけ借りたこの部屋を出て行く。
先日引越し先に送った荷物はきっと無事に届いていることだろう。しかし、何もない部屋を見てにわかに不安になった。
『(服、送りすぎたかな……まぁいいか)」
 NRC卒業後、ケイトは輝石の国のとある企業の営業として勤務していたが、このたび別の国に生活の拠点を移すことにしたのだった。新人のなかでも営業成績がよかったこともあり、上司からは『考え直してくれないか』と何度も慰留された。新人のケイトの働きを認めてくれる、いい人たちだったと思う。
そして地元に戻りながらも実家に住まうことなく部屋を借りたのは、ケイトにとって特に不思議なことではなかった。姉たちの近くは騒がしい。仲が悪いわけではないけれど、できれば適切な距離を保っていたい。
 ここならギターを弾いていても、動画を見て大笑いしても、電話で大喧嘩をしても、咎められたりすることもないのだ。
「お世話になりました、っと」
 かつて自分がいたそこに向けてシャッターを切る。ふう、とひとつ息を吐くと、何かに気づいたようにポケットをまさぐった。取り出した財布の中から1枚の片道切符を手に取り、しばし眺める。
『輝石の国-薔薇の王国』
 よし、ちゃんとある。ケイトはまたそれをしまうと、スーツケースに手をかけ慣れ親しんだそこに別れを告げた。
 外はまだ冬の名残を残している。ひんやりとした風が頬を撫でた。だんだん雪もとけて、あたりは一気に色づくだろう。真っ白な雪で隠れていた風景がどんどん顔を出して、眠りからさめていくようなこの国の冬の終わりが、ケイトはとても好きだった。
『(今度帰るのはいつかな)』
 新しい土地に順応するのは得意だ。不安はない。その国は、ここよりも温暖で雪は滅多に降らないらしい。雪が恋しくなるときが来るのだろうか。それはいわゆるホームシックと同じような心地なのだろうか。学生時代にはこれっぽっちも思わなかったのに。
 数十分かけてたどり着いた輝石の国のメインターミナルは相変わらず賑やかで、今日も数えきれないほどの人の旅が始まっては、終わる。人の数だけ人生があるのだと実感する場所だ。
 しばらく見ないうちに土産物の種類が増えたような気がする。陳列されているほとんどが甘い菓子で、本来なら縁遠いはずのものだった。だが今ではもう、買っていくと喜ぶであろう顔が浮かんできてしまうので、ケイトは気になったひとつを思わず手に取った。しょうがないなぁ。これと、これもつけてやるか。
「それはあまり甘くなくてお兄さんにぴったりですよ」
 聞き慣れたあの声だとすぐにわかってしまったケイトは思わず吹き出した。振り返った視線の先には、眼鏡の奥でこちらを見つめる蜜色の瞳があった。
「ちょっと〜、わざわざ迎えに来なくていいのに! どのみちそっちに行くんだし」
「いいんだよ。俺が来たかっただけだし」
 輝石にも降りてみたかったしな、と笑う彼はケイトの手から菓子の箱をさらって、おまけにもうひとつ別の小さな袋(列車内でつまむのに最適なチョコレートのアソートがあったらしい)をたずさえて戻ってきた。
「ってかなんで甘くないって知ってんの?」
「パティシエたるもの、世界中の菓子をリサーチするのは当たり前だろ?」
 そう言って彼はケイトの手を取りそっと指を絡めた。冷えがちなケイトの指先に、少し大きな手からじんわりとその体温が伝わってくる。
 ーー二年って、長かったな。
 やっと隣にいられる。静かなしあわせがゆっくりとわき上がる。雪がとけていくように、少しずつ胸の奥があたたまっていく感覚がどうしようもなくうれしくて、ケイトはその手をぎゅっと握り返した。

 

bottom of page