照らしてよ
誕生日が近くなると見る夢があって、宮城リョータはここ最近まともに眠れていなかった。じっとりとした湿度をまとった、沖縄のそれとはまた少し違う暑さのせいでないことは、彼自身がいちばんよくわかっていた。
夢の中ではいつもきまって、リョータと兄・ソータが海中に浮かんでいる。太陽の光が射すエメラルドグリーンに、きれいだ、と思う次の瞬間には自由のきかない四肢に気付く。脳内が一瞬にして焦りで塗りつぶされる。
『ソーちゃん! ソーちゃん!』
ソータの口元も何かを発しようと動いてはいるが、漏れ出ていく酸素の無数の泡が彼の顔を隠してしまって何も読み取ることができない。リョータは力の限りに腕を伸ばす。届かない。もっと、もっと近くじゃないと。ソーちゃん。ソーちゃん。
海の底はおそろしいほどに真っ黒だった。何があるかなんて見えるわけもない、途方もない暗闇だった。けれどリョータはソータを失うことのほうが何倍も何倍もおそろしくて、叫び出したいぐらいに怖かった。
苦しみに歪むソータの顔が暗闇に溶けていく。
待って。いかないで。おいてかないで。
リョータはいつもそうやって、何度も夢の中で兄を失う。
彼が神奈川に越してきて以降、見なくなっていたはずだった。
そしてだ。朝からくたびれた自分を奮い立たせて登校してみたはいいものの、睡眠不足がたたってかいつも以上に授業に集中できないし、部活中も明らかに調子が悪かった(コンディションを整えるのも仕事のうちだ、と小言をもらってしまった)。リョータの鬱屈とした心は、心の支えにしているバスケットをすることさえ難しくしていた。
放課後、いつもなら体育館で汗をかいている時間だ。しかしリョータは自室に敷いた布団の上で薄いタオルケットにくるまって、ただ天井を見つめていた。体調が思わしくなく、部活を休んだ。
バスケットがしたい。その気持ちとは裏腹に、沈んでいきそうになる心と身体。重いそれらに潰されないよう、誰にも助けを求めることなく一人でぐっと耐えている。なにもかもがちぐはぐで、バラバラだった。いっそ眠らなければいいのではと、夜中に家を抜け出して何時間も走り込みをしたこともある。学校も、公園も、よく行くコンビニもゲーセンも何もかもを通り過ぎて、あやうく現在地がわからなくなるところだった。自分などいなくなったっていいと思ったりもしたけれど、ふっと母の顔が浮かんで、やめた。
帰宅して疲れた身体で見る夢は、かえって鮮明になって脳裏に焼きついた。逃げられないとわかった。
ーーバスケしてぇ。あぁでも、ソーちゃんは二度とできないんだ、バスケ。海の中じゃあ、できないんだ。
ねぇ、オレがバスケすんの、イヤ?
誰に聞かれるでもない呟きは静けさの中に溶けていって、それが尚更リョータに虚しさを与えた。彼が今いちばん欲しかったのは、その問いの答えだ。誰も答えることのできない問いの答えだった。
目を閉じてみる。眠気がおとずれる気配はまるでない。それでよかった。眠りたくはない。だってまた失ってしまうから。これ以上見つめていたくない。兄の悲しい姿も、どうしたって届かない己の非力さも。
扉の向こう、廊下をバタバタと駆ける音がした。アンナだ。
「リョーちゃあん、みついさん来たよ~って、うわ」
思いもよらぬ来客とアンナのうわずった声にただならぬ気配を感じ、扉を凝視する。間髪入れずに開いたすぐそこに、見慣れた顔の男が立っていた。
「入っていいって言ってないんスけど」
「おう」
「アンタねぇ……」
三井はエナメルバッグを部屋の隅にどかっと置くと、寝転んだままのリョータの傍らに腰を下ろした。胡座をかきながら、無造作に積まれた雑誌の中からバスケットボール・タイムズ七月号を手にとりペラペラとめくる。
「寝てたのか? 行くって送ったの見てねえのか」
別に拒んでいたわけじゃない。気分じゃなかっただけだ。
今日は学校行事の影響で体育館を使える時間が短かったのだそうだ。なるほど、そうでもなければこのバスケ馬鹿がこんな早い時間に来るはずがないと納得した。
「だから今日は軽めでよ、あとは部室の掃除だったぜ。ったくこういう日に休みやがってお前は」
ちゃっかりしてやがんぜ。三井はそう言うと雑誌を元の場所に戻し、左肘を床に、左手で側頭部を支えるような体勢になって寝転がった。まるで自宅のような寛ぎようだ。しかしそれよりも、伸びてきた彼の右手が自分の髪にやさしく触れたことに、リョータの心臓は高鳴った。
大きな手だ。節くれ立っているけれど、頼れるシューティングガードの、いつも繊細なボールタッチで美しい弧を描く手だ。
もどかしさと気恥ずかしさと、ほんの少しの抗議の意思をこめて見つめていると、視線が交わった。
「いいだろ、彼氏なんだから」
したり顔で。そう言われてしまうと、かなわない。
ーーあぁ、アンタはいつもそうやって。沈んでいきそうになるオレをさ。
「っつーか今日、桜木がワンオンしろってうるさくてよ」
手のあたたかさのせいだろうか。少しずつ重くなる瞼。不思議と怖くはなかった。認めたくないが、すぐそばで聴こえる三井の低めの声もリョータをじんわりとほどいていく。
「勝った? 三井サン」
「たりめーだ。次は多分お前だぜ」
「そか、じゃあ明日は行かねぇとだな……」
「おう、そうだぞ。ズルズル休もうってんなら引っ張り出すかんな」
「やすまねぇよ……」
何があったって、オレにはバスケしかねえんだから。
あまりに眩しいと思った。かつてはくすんでいびつな光り方をしていて、リョータの行く先を何度も阻んで傷つけた。しかし今ではその光で足元がはっきりとわかる。目を瞑ってもいられる。ゆるやかに、眠りにつくことだってできる。
ねぇ、そこにいて。
そうやって、強引なぐらいまぶしくて熱い光で。