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身を焦がすほどの

 噴き出した青い炎は辺りを一瞬にして覆い尽くし、あらゆるものを焼いた。混乱し立ち尽くすことしかできないメイスのそばから、人々が恐れをなして逃げてゆく。断末魔の叫びが何度もこだまして途絶えた。何度も。
 なぜ。なんで。俺が。そう思えば思うほど炎は暴れ狂ってそこら中を黒く焦がし、獣のように食い散らかした。
 嘘だ。そんなはず、ないだろ。俺が、俺がバーニッシュだなんて…──!
 メイスは駆け出した。怒号と悲鳴にまみれたこの街を出るために。


「とりあえず隣町までな。さ、乗った乗った」
 荒野をゆく。悪路ゆえ、尻や腰への振動がなかなかこたえる。数日の間、街の外れで身を潜めていたメイスは少しでも早く街から遠いところへ行かなければならなかった。彼の所持品はズボンのポケットに入っていた少しの金、それと煙草だけだ。いわゆるヒッチハイクなどする気は毛頭なかったが、とぼとぼと歩いていたところをいかにも人の良さそうな壮年の夫婦に声を掛けられたので、あえてその幸運を享受することにした。メイスは後部座席から、一向に代わり映えしない景色をぼうっと眺めながらただ揺れに身を任せた。
 自分がバーニッシュになってしまったという事実を、まだ受け入れられずにいる。ましてや今後についてなど、考えられる訳がない。彼はすべて置いてきたのだ。家も仕事も友人も大事なギターも、そして女も。彼があの街を出た翌日には、ひっきりなしにかの女の名で通知や着信が届いて彼の携帯端末を揺らしていたが、電源を切ってそこら辺の川に捨ててやった。二度と戻れない場所など、もうどうでもよかった。
「それにしてもどこ行こうってんだい、気をつけなよ兄ちゃん。もしバーニッシュなんかに遭っちまったらとんでもないことになるからなぁ」
「……」
 メイスは返事もせずに、どこからかくすねてきた厚手のストールを目深にかぶった。先ほどの夫の言葉に反応したのか、助手席に座る夫人が、そういえば、と切り出したのはバーニッシュについての噂話だった。
「サマンサが言ってたのよ。バーニッシュは怪我をしたらキスをして治すんだって学校で聞いたって。あの子ったら変な噂信じちゃって…困ったもんだわ」
 人工呼吸でもあるまいし、と運転席の夫は一笑に付した。笑い事じゃないわよ、バーニッシュの話なんて、と一般市民にとって脅威であるはずの彼らの話題に興じる彼女を案じた。夫婦の雰囲気からしてきっと孫娘なのだろう。約三十年前の世界大炎上から端を発し今なお続く恐怖と憎悪の連鎖。その渦中で生きてきた彼らとの世代間ギャップが生じるのも、無理はない。
 メイスは何を思うということはなかった。バーニッシュの話を目の前でされたとて、正体を見抜かれる恐怖も緊張も、無条件に恐れられ差別される悲しみでさえも。それよりも、次々と湧いて出る疑問符ばかりが思考を支配した。
自分は本当は何者で、何がどうなってこうなってしまったのか、これははじめから決まっていたことなのか、もしそうだとしたらどうすればこうならずに済んだのか。もう元の身体に戻ることは出来ないのか。そんなことばかりが思考を埋め尽くした。誰でもいいから教えて欲しかった。なんなら、噂話でもなんでもよかった。しかし、すべては虚しいだけの問いだった。今の彼には、それを教えてくれる人も、傍にいて手を差し伸べてくれる人もいなかったので。
 夫人の長い話は続いていた。運転席の夫がおもむろにラジオのスイッチを入れる。雑音の合間に聞こえてくる音楽やDJの陽気な声。特に音楽は聴きたくないと、メイスは抱えた片膝に突っ伏し目を閉じた。
 ふと、合わせたチャンネルから聞こえてきた抑揚のない声。ニュースだろう。淡々と原稿を読み上げるアナウンサーは伝える。
『今日午後二時頃、ダラス市内XX地区で火災が発生し、負傷者・行方不明者が多数出ている模様です。懸命な消火活動が続いていますが午後四時の時点でまだ鎮火には至っていません。』
 そして次の言葉に、メイスは耳を疑った。
『火災現場となったのは買い物客が多く集まるショッピングモールで、数人の男がビルに向かって炎を放つ様子が目撃されており、今回の火災もバーニッシュによる犯行と見られ、警察とフリーズフォースは彼らの行方を追っています』
 聞き覚えのあるワードに、メイスは記憶を揺り起こした。
「(XX地区のモール……まさか…)」
 それは他でもない、メイスが置いてきた女の勤務地であった。ざわつく心臓。喉がくっと締まり、苦しい。
「あらまぁ、嫌ね…またバーニッシュ…」
 ──戻りたい。戻れるのか。いや戻れない。俺はバーニッシュ。戻れるわけがない。でも安否ぐらい。生きているのか。それを知る権利が俺にあるのか。あの日みたいに炎が出てしまったら。しかし。
 願いと肯定、そして否定。うごめく無数の言葉が溢れそうになった時、メイスの中で何かが切れた。
「…れ」
「え?なんだって?」
「戻れ…ダラスだ、今すぐ戻れ」
「はぁぁ?な、何言って…」
 動揺のあまりブレーキを踏み込み急停車したせいで、夫婦は大きく前のめった。苛立ちを隠しもせずに後部座席を振り返った彼らに投げ掛けられたのは思いもよらぬ言葉だった。
「いいから戻れ……焼かれたいのか」
 狂気に満ちたメイスのおぞましい顔面と、左手で揺らめいている青い炎を目の当たりにし、夫婦はひっ、と高い声で一瞬呻いた。夫人は叫び声を抑えるように己の口を両手で塞いでいる。
 エンジン音を響かせ、轍を辿るように車は駆けていった。


 日が落ちたダラスの空は、バーニッシュが放った炎の色を受け、深く暗いマゼンタに染まっていた。黒煙が空高く昇り、その渦中でレスキュー隊が延焼を食い止めようと必死に放水を続けている。張られた規制線に群がる人だかりに紛れ、現場を目の当たりにしたメイスは絶望した。記憶の中のその場所は見る影もなく、建物だったそれは激しい炎をまといながら、まるでインクで塗りたくったような真っ黒い骨組みだけの無残な姿を晒していた。少し離れた辺りで負傷者の救護が行われていることが分かると、人をかき分けるようにしてそこに向かった。しかし、いない。どれも違う。彼女に似た背格好の負傷者は山ほどいたが、どうしても見つけることができない。あらためて突きつけられる惨状に震えを抑えながら、この建物の裏側へと向かうことにした。甲高い警笛と呼び止める声は、もはや彼には聞こえなかった。
 裏側へ向かったのは、よく待ち合わせをしていた裏口を知っていたからだった。そこから中に入ることができれば、見つけ出せるかもしれない…あまりにも危険で無謀な行動だとは彼も重々承知であった。バーニッシュになってしまったあの日、何も言わずにひとり逃げてきたせめてもの罪滅ぼしみたいなものだった。今や石を投げられ居場所を追われる存在と化した身、すべて失った彼には守るものもなかったので。
 息を切らし、両膝に手をつく。辺りは崩れ落ちた外壁や柱が黒く焼け焦げ無残に重なりあい、ところどころから煙が立ち上っている。言葉を失う。呆然と辺りを見回す中、彼がそれに気が付くのに時間はかからなかった。煤でくすんでいるが、見覚えのある服の一部が視界に入る。目を凝らして覗き込み、駆け寄った。
 名前を呼び、頰を軽く叩く。意識がない。心臓に耳を傾けるも、鼓動が感じられる気配はない。助けを…そう辺りを見回すメイスの耳に鳴る、パチ、パチという小さな破裂音。燻っている火種がまだどこかにあるのか、そう思いを巡らせたのも束の間、目の前にいくつも浮かび上がる炎の欠片。そして身体の奥底から燃え滾るような、熱。そう、他ならぬメイス自身から発せられている炎であった。
「なっ…!」
 思わず彼女から距離を置く。どうにか炎を抑えようとするも、勝手が分からない。どうすれば?バーニッシュは、どうやって炎を?彼らについてなど知る訳もない彼の脳裏に浮かんだのは、昼間に聞いたまったく関係のない噂話だった。
『バーニッシュは怪我をしたら、キスをして治すんだって』
 ───くそっ、こんな時に…!
 それができるのならどんなによかっただろう。自らの炎で生かすことができるならどんなに…しかし、そんな噂話に縋りつきたくとも、それすら叶わない現実。メイスは奥歯を噛んだ。
もはやどうすることもできない。混乱と動揺、そして己の無力さゆえに湧き上がる歯がゆさに、青い炎はじわじわ勢いを増して噴出している。ふと、聞こえてきた怒鳴り声で我に返る。
「あっちに行ったぞ!バーニッシュを逃がすな!」
 メイスの焦りは増した。これでは捕らえられてしまうどころか、放火の張本人として濡れ衣を着せられるのは避けられない。とはいえ、バーニッシュと化して日の浅いメイスには、炎を無理やり押しとどめるほどの力や手段など備わっているはずもなかった。
 目の前には、力なく横たわる彼女の身体。燃え続ける己の身体。メイスは、彼女を抱きかかえた。
 ───燃やし尽くそう。すべて。その身体も思い出も、何もかも。
 メイスは彼女にキスをした。重なった口元からは青い炎が噴き出して燃え上がり、一瞬にして二人を包んだ。青く激しい炎、ひどく青白くて、もし見た者がいたならばまるで氷のようだと言うだろう。しかしその灼熱はすぐにその愛した女の華奢な身体を焦がし始めた。長くていつもさらさらと指通りのよかった髪も、すらりと伸びた手足も。焼け焦げていく。メイスは目を閉じたまま、ずっと、ずっと、唇を離そうとはしなかった。
 しばらくして、抱えていた重みが手から消えた。ゆっくりと瞼を持ち上げたメイスの眼前には、ゆらゆらと燻る己の残り火と、灰のような、くすんだ白色の、かつて彼女だったものが点々と落ちているだけであった。かき集めても掌ですくうこともできない質量のそれを左手で握り込んで、それっきりしばらく動かなかった。


 一週間ほど経っても犯人逮捕に至っていない件(くだん)の火災について、メディアは連日大きく報じた。炎を放つ複数の男を見た、南の方向に逃走していったという証言がある一方、青い長髪の男が逃げる姿を目撃した、という証言もあると伝えるものもあった。情報は錯綜していた。きっと、その青い髪の男も重要参考人の一人として追われるのだろう。しかし彼が今どこで何をしているか、知る者はどこにもいない。ダラスの街で暮らしていた青い長髪の男は、もうどこにもいないのだ。

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