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父親になった秋の日に
10月にしてはやけに冷える朝だった。まだ陽も昇りきらないころの、とある小さなパティスリー。誰もいない厨房で彼は短く息を吐いた。あきらかに疲れをにじませた瞳はとろんとして今にも閉じられてしまいそうだったが、頬を両手で軽く叩いていつものコックシャツに袖を通した。ケーキを、つくらなければならない。
さまざまな種類の商品をこしらえるためには、それなりに仕込みが必要だ。今日はホールケーキの予約がいくつか入っていた。何かのお祝いだろうか、それとも。きっと人生の節目だとか、なにか特別な日なのだろう。彼がつくるケーキを、今日も楽しみに待っている人がいるのだった。
この店は彼が妻と二人で切り盛りしているちいさな店で、いちごタルトがすこぶる評判であった。ジューシーで肉厚な甘酸っぱいいちごと、さっくりとした生地の食感がとてもよくマッチしていて、開店当時から人気の逸品だ。薔薇の王国で有名な情報番組で紹介されたこともある。
大きなボウルに盛られたいちごを、ひとつひとつスライスしていく。どれが厚くても薄くてもいけない、とても繊細な作業だ。包丁を握る手に力が入り、刃先が少し揺れた。その震えの理由は、ケーキを美しく仕上げなければならない緊張ゆえのこわばり、だろうか。それとも、今朝うまれたばかりのわが子を守っていかなければならない、父親としての覚悟だろうか。
昨日、店を夕方で臨時休業にして彼が病院に駆けつけたころには、誕生の兆しを見せ始めてすでに数時間は超えていたと思う。どうしていいかわかるはずもなく、力の限りにいきみ続ける妻の手をただ握った。目の前で命をかける妻に何もしてやれないもどかしさとたたかうことしか、彼にはできなかった。それから何時間も何時間も、日付もとっくに変わってそれから何時間も。もう少しもう少し、がんばって、と助産師の声がするほうから、やがて聞こえてきた産声。それはちいさなちいさなからだの奥から絞り出しているようにこわれそうで、しかし思いのほか大きかった。彼も妻も、涙があふれて止まらなかった。
元気な男の子。ごくうっすらと生えた髪は、まだはっきりとは分からないが、やがて父親である彼と同じ緑色になるのだろうと思われた。顔はきみに似てる気がする、彼がつぶやくと、そうかもねと言って妻は微笑んだ。
そして空の藍色がゆっくりと薄くなりかけるころ。ひどく消耗した妻をひとり置いていくことは、とてもためらわれた。しかし妻にはすべて見透かされていたのだろう、いとおしそうにわが子を腕に抱きながらもそわそわと落ち着かない彼に、しずかに告げたのだ。
「だれかの記念日にケーキがなかったら、かなしいでしょ?」
それから時が経ち、その息子に魔法士養成学校の迎えが来た日のことは、3年経った今でもとてもよく覚えている。全寮制学校への入学という、思いのほか早い親離れ。さびしいような、うれしいような、それでいて心配でもあって。名前がつけられない初めての感情に戸惑ったものだった。
彼も妻も魔法が使えないので、そもそも魔法士というものについてよく知っているわけではなかった。息子が入学する学校のこと、魔法士のこと、そもそも魔法とはどんなものなのか……彼が知識として持っていたものは、かつて学生のころに世界史で習った『世界的に大きな魔法戦争が起こった』ということぐらいだったので。
魔法はこの世に存在するあらゆる職種で活用され、日々進化を遂げているらしかった。彼のように食を提供する分野でもそれは例外ではなくて、たとえば魔法を用いた新種のフルーツの開発だとか、ケーキをつくる作業工程を魔法によって自動で行ない、それ自体をエンターテインメントスイーツショーとして客に提供する…といったようなことに用いられているらしかった。彼のようにただ地道にみずからの手でケーキやタルトを成していくのとはまるで正反対の、別世界のできごとのように思えた。
ほかにも、魔法医術、魔法工学、魔法芸術……それらの言葉に聞き覚えはあったものの、知れば知るほどあるひとつの疑問がわきあがっていった。それは息子が3年生となった今でも、聞けずにいたことだった。
この学校を出たら、息子はなにをしたいのだろう?
かつてホリデーで帰省した折に、錬金術という化学のような授業が好きだと話していたことがあった。部活動はサイエンス部に所属している、とも言っていた。もしかするとそういう道に進みたいと考えているのかもしれない。そういった話を、彼は息子としたことがなかった。店を営むクローバー家の長男だからと、何か思っていることがあるのだとしたら。父として、そろそろ話しておくべきなのかもしれない。18歳、少し遅くなってしまったけれど。
魔法士養成学校に息子を送り出した時から決めていたのだ。息子がみずから決めた道がどこにつながっていても、だまって背中を押してやるのだと。
時折、息子から送られてくる写真をながめる。寮の友人たちに振る舞っているケーキやタルトだそうで、日に日に腕を上げているなと感心してしまう。息子の所属する寮ではよくパーティーが開かれるのだそうで、それはなにかの記念日なのかと聞いたら『なんでもない日』を祝う日なんだ、という答えが返ってきて拍子抜けしたのを覚えている。もちろん、誰かの誕生日も盛大に祝うらしい。
なんでもない日、つまり日常のなにげない一日。そして誕生日のような特別な日にも、息子のつくったケーキがそこにいろどりを添えているのだとしたら、ケーキ屋を営む父親としてなんだか誇らしい気持ちになった。親ばかだな、と笑われてしまうだろうか。
黒焦げのスポンジケーキに半べそをかいていたあの日は、もはや遠くにすぎていたのだった。
秋晴れの午後。先週から販売をはじめたスイートポテトのケーキも、評判がよくてひと安心だ。もうそろそろ今年のクリスマスケーキのアイディアを練らなければならない。ケーキ屋の秋はほんとうに短い。そうしてすぐに、息子と厨房に立つ冬がまたやってくる。
客足の落ち着いたころ、彼はポケットからスマートフォンを取り出すと、今年もたった一文だけを打ち込んだ。
「トレイ、誕生日おめでとう」
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