甘いのもわるくない
トレイとの待ち合わせ場所のカフェに到着したケイトは、恋人の鞄に紺色の折り畳み傘は入っていただろうかと、記憶を辿った。鉛のような雲が重く広がり、思いのほか雨が強まっていたからだ。いつものテラス席を横目に店内に足を踏み入れると、運良く空いていた窓側の席をふたつ確保した。
小さなパティスリーに勤務するトレイは休日であっても店長から連絡が入ることがまれにあり、あいにくそれに当たってしまったのだった。今日はふたりの休みが合ったので久々にカフェにでも行こう、そう決めた矢先のことだ。店からの電話を切った恋人は、ケイトに何度も謝りつつ決して柔らかくはない目つきをさらに強張らせながら急いで家を出て行った。その背中を見送ったのがつい数十分前のことだ。
また今度にしよう、とケイトは提案したのだが、
「だめだ。お前が楽しみにしてた限定メニューは今週末で終わりだろ」
と頑として譲らなかった。存外頑固なのは初めて出会った学生の頃からちっとも変わっていない。
ここは大通りに面しているが、この天候のせいか人はまばらだ。通りの向こうには川が流れていて、今日の雨をただ静かに吸い込み蓄えている。テラス席を覆う庇から垂れ落ちた水滴が、ひとけのない寂しげなテーブルや椅子に跳ねた。時折通りがかる人や車のほかでは、ここから見える世界でそこだけが躍動しているように見えた。
隣の席に座る恋人たちの会話が聞こえてくる。その断片から察するに旅行の計画を練っているのだろう。画面に映し出されたフォトジェニックな写真を見せ合っては、楽しげに夢を膨らませている。せっかくの記念日なんだから、と男が笑った。
ケイトはふと、自分はどうしてトレイと付き合っているのだろうと考えた。
すきだから、ということで間違いはないし、別に何か理由をあてがわなければいけないという訳でもない(そして、彼のことが嫌になった訳でもない)。けれど、自分が今ここで人を待っていて、それがもう何年も隣にいる恋人なのだと思うと、なんだか落ち着かない。他人事のような感覚に陥るのだ。トレイとは親友であり、恋人でもある。しかし恋人という甘い響きのせいだろうか、やけにふわふわと浮かんで安定しない心地と、なんだか自分たちがそれを名乗ることについて場違いのような気恥ずかしさを覚えないでもないのだ。
そんな感覚になるなんて、自分でも今更だと思う。いつも同じベッドで目覚めて、同じテーブルで朝食を摂って、同じ家に帰る。そんな日々もとっくに染みついているはずなのに。
ながく一緒に生きていくことを選んだ人たちは、その理由を他人から問われた時にどう答えるのか。思いつく限り並べてみる。
気を遣わず自然体でいられるから。互いが隣にいることに何の違和感もなかったから。同じ方向を向いて歩いていけると思ったから。
ケイトは誰にもわからないぐらいに小さく頷く。
ーーそう、わかるよ。わかるんだけど。
これらの模範解答はいずれも、ケイトにとってしっくりくるものではなかった。
当の本人に聞いてみたとする。
「そんなの、○○だからに決まってるだろ」
と、まるで子供みたいに言うような気がする。そうやって、いいこともそうでないこともたまに決めつけては、さもそれ以外には考えられないし考えたこともないというような顔をする。おかしいのだとすれば何がおかしいのか分からないという、それでいて、無邪気な瞳でこちらを見つめてくる。眼鏡の奥はいつだって真剣だ。ケイトはその瞳に見つめられると、心臓のいちばん中心をくすぐられているような心地になるのだった。ぎゅっと握られるのでも、突き刺してくるのでもない。ただ、そこで生まれるじんわりとした温度は、今までもこれからも自分にとって必要だとケイトは思う。
トレイにはないのだろうか。迷いとか、不安とか。こうしてひとり、物思いにふけったりすることとか。こっちはいつか来るかもしれない別れを思い、ひとり不安に駆られたりすることだってあるというのに(それが悪い癖だという自覚はある)。
右肩に感じた体温に振り返ると、見慣れた瞳と目が合った。
「ごめんな、やっと終わった」
「おつー。濡れてないね」
「あぁ、忘れたと思ったけどあったよ。ケイトが入れてくれたんだと思ってた」
「だとしたらお返しは限定メニューでいいよ」
「はは、最初からそのつもりだよ」
遅れたお詫びもあるしな。トレイはそう言うとケイトの襟足をさりげなく撫でて、カウンターへ向かった。
トレイが選んだドリンクにはストロベリーがふんだんに使われていて、上に乗るうっすらとしたピンク色のホイップクリームが、主役の赤色と混ざり合ってまだら模様になっている。その傍らにはふたつのチョコレートドーナツ。
ケイトは限定のスパイシーパイを頬張りながら、トレイの口元についたチョコを指差して笑った。そうしてから、
「トレイくんはさ、なんでオレと付き合ってんの?」
そう投げかけた。今日のディナーは何がいいか、と尋ねるような具合だった。
漂う沈黙。
あ、なんかあったとかじゃないから安心してーーケイトがそう付け加えると、トレイの強張った表情がふっとゆるんだ。
「な、なんでって……すきだから」「それ以外で」「えー、なんだよ」
トレイはぶつぶつと文句を言いながらも首をかしげ、真剣に頭を悩ませる。ひとしきり考えたあと、指についたドーナツの油をペーパーナプキンで拭いながらつぶやいた。
「ケイトの人生を見ていたいから、かな」
「……?」
「どうした、この答えじゃ不満か?」
「いや、想像してたよりもななめ上だったなと思って」
「まだまだあるぞ」
「いや結構です」
言い足りない、ぜひ言わせてくれ。そう言いたげに、そして得意げに微笑むトレイの言葉をあえて遮った。彼はきっと調子付いて、きざったらしい言葉をなんの恥ずかしげもなく並べてくるに違いない。そう、自分の手には負えないぐらい甘い言葉を。トレイはそういう男だと、長年の経験からケイトは思い知っている。
ケイトは恋人の手元にあるドリンクに口をつけた。
「甘いだろ」
「うん」
「口に合ったか?」
「んー……」
クリームとストロベリーが口の中で混ざる。なんて甘いんだろう。トレイの好きな甘さ。甘ったるさ。
人生を見ていたいーーケイトはその言葉を反芻した。そうしてまた、トレイの手の中にあるドリンクに唇を寄せた。