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境界線


 

 伸びっぱなしのそれはバスケットボールへの未練そのもので、顎の傷や情けない自分の素顔を隠すのにはちょうど良かったけれど、これからはもう必要のないものだーー三井寿は肩まである長い髪を親指と人差し指でつまみながら、むずかしい顔で自宅の洗面台の前に立っていた。

 手元には父のバリカンとハサミ。黙って拝借したはいいものの、バスケット以外のことはてんで不器用な自覚がある。おかしな髪型を笑われるとか、できれば坊主は避けたいだとか、そんな意地と見栄とプライドが彼の手を小一時間止めていた(してしまったことを省みれば、そんなことを気にしていられる立場でもないのだが)。

『準備ができたらいつでも戻ってこいよ』

 あの体育館での事件から数日経った頃。木暮がまるで何もなかったかのようにそう言った。できればインターハイの予選に間に合うとありがたいんだけど、と彼が笑って付け足すので、三井は戸惑いとともになんだか身震いするような心地さえした。

 ボールの重さ、革の手触り、ドリブルの感触、そしてシュートを放つあの瞬間とゴールネットを揺らす音。いつだって鮮やかによみがえる。己の手にそれらが戻ってくると思ったら、この震えの原因がはっきりとわからなくなった。喜びか、あるいは恐れか。それぐらい本当に、本当に望んでいたのだ。

 しかしだ。信用。贖罪。ブランク。左膝。己の前に山積みになったあれこれを超えなければならない。それすらできなければ、かつて誓ったその先の目標など夢のままで終わる。理解はしている。険しい道だ。

『昨日話してたんだ。今年こそって。な、赤木』

 木暮の後ろで赤木は、いつもの堅い表情を少しも崩さず腕を組んで黙ったままだった。

 

 

 鏡の中の自分と睨み合っていた三井は、緩慢な様子で家を出た。視線の先には太陽の光をうけた海がきらめいて眩しかった。やや下り坂になっているので、ほんの少しだけ左足を気にしながら。もう一度、診てもらわなければならない。

 十分ほど歩いた先にその店はあった。個人で営んでいる小さな理髪店だ。店先には赤・白・青の模様が回り続けるいわゆるサインポールが佇んでいて、色褪せたポスターの美女が笑っていた。

 父の行きつけであるここに、三井は高校一年まで通っていた。まだ髪型などほとんど気にしないような幼少期からの付き合いだ。店主は三井少年をいつだって歓迎してくれた。その大きな口をいっぱいに開けて豪快に笑う人で、飽きもせずバスケットの話ばかりする三井少年をまるで息子か孫のように可愛がった。

 高校生活に慣れた頃ともなると、たとえば横浜にある流行りの美容室に行く同級生もいたので、彼もご多聞にもれずそれに倣うつもりだった。しかしあれから彼の髪は伸びたままになった。

「(入りづれぇ……でもここしか知らねえし、他探すのもメンドクセーしな……)」

 何より、一日でも早く部に戻りたかった。まだ新しい前歯も入れていないし、あの頃のバッシュはもう今の自分には小さかった。二年も経ったのだ。

 ーーあークソ、こんなところでビビってちゃ話になんねぇ。

 意を決して入口のガラス戸を引く。上部に備え付けられたベルがチリンと鳴ると、野球のデーゲーム中継を気怠げに見ていた店主がこちらを向いた。

 一瞬の間。そして目を見開いて声をあげた。

「おお! しばらくぶりだなぁ、元気しとったか!」

「……ちわす」

 もう忘れられていると思っていた。見た目もすっかり変わってしまったはずなのに。

 店主は三井を理容椅子に促した。腕が鳴るなぁ、と嬉しそうに笑った。

「だいぶ伸びたんでないか? さあどうする、坊主か? 角刈りか?」

「いや、どっちも勘弁してくれ……」

 施術中、店主は長い空白の期間を埋めていくように、三井にさまざまな問いや話題を投げかけた。何年生になったんだ、背もずいぶん伸びたな、勉強はちゃんとやってるか、つい何日か前に親父さんも来たんだよーー三井の耳にはシャキシャキと小気味良いハサミの音と、やけに楽しげな店主の声が絶え間なく響いていた。短い返事やそっけない相槌しかしない三井にかまわず、店主は本当によく口がまわった。豪快に大笑いするその姿も以前とまったく変わらなくて、なんだか久しく感じたことのない穏やかな心地さえした。

 しかしだ。膝のケガのこと、バスケットから遠ざかっていたことについて、店主は話を切り出そうとはしなかった。父と長年の付き合いで、耳にしていてもおかしくはない間柄だ。もちろん、進んで話したくはないけれど三井自身も多少の覚悟はしていた。だが店主は何より、顔につくった傷やぽっかりと空いてしまった前歯のことだって、気にするそぶりをこれっぽっちも見せようとはしないのだった。

 サラサラと長かった黒髪が、すっかり視界に入らなくなった頃。入口のベルが鳴って新たな客の来店をしらせた。店主は、エミコ(たしか店主の妻だ)呼んでくるわ、とその客に告げてから、

「あと後ろバリカンあてて、細かいの整えたら終わりだ。ちょっと待っててな」

 と三井にささやいた。そして壁際にあるマガジンラックから取り出した数冊を、鏡の前のカウンターにそっと置いた。三種類あるそれらの一番下の表紙に、目を奪われる。

 今朝のスポーツ新聞、ティーン向けのメンズファッション誌。そして、バスケットボール・タイムズ最新号。

 三井はゆっくりとそれを手に取ると、隅から隅まで食い入るように読み進め始めた。長かった未練に別れを告げて、軽やかになったその横顔はみずみずしく、それでいて有り余るほどの熱を帯びていた。

 やがて戻ってきた店主は、口を開くことなく再びハサミを入れ始めた。

 しばらくして。身体を覆っていたケープが外された。

「男前になったな! わははは」

 隣の客の髪を乾かすドライヤーの音が響いていたが、それにも打ち消されない笑い声。わざわざそのドライヤーを止めたエミコが『うん、とっても似合ってる』と言うので、三井は気恥ずかしさで視線を泳がせるばかりだった。

 ぼやけていた自分自身の輪郭も、顎の傷も、さらけ出して生きていく。鏡の中の自分はいまだ見慣れなくて、まるで他人のような気もしてしまうけれど。

 ーーバスケができる。やっとだ。やっとできる。でも、ぬるいプレーは許されねぇ。オレのこれからを、全部を賭けてやる。

 眉間にぐっと力をこめた。こみ上げてくるこの感覚は、喜びと後悔と、重圧と興奮だとかがぐちゃぐちゃに混ざり合っていて、それをうまく表す言葉を彼は知らない。

 バスケットボールは自分のすべてだ。見ないようにしていたその事実も、それだけはずっと、ほんの少しも変わらなかった。

 三井は鏡を見つめたまま、しばらく椅子から立ち上がることができなかった。

 

 

 数日後。体育館への道すがら、三井は反対方向から近付いてくるひとつの影を見とめた。その背格好には覚えがある。宮城リョータだ。彼はまだ治りきっていない傷を顔面にいくつも残しながら、こちらを見るなり目を丸くした。指をさすな。オレは先輩だぞ。

 体育館入口。シューズと床が擦れる音、ドリブルの音が近い。高鳴る心臓。久しくしていなかった緊張という事象に、思わず鼻息が荒くなる。

 期せずして宮城と同じタイミングで体育館に出向くはめになったが、そんなことをいま気にしている場合ではない。

「オレは諦めが悪いんだよ」

 頭を下げる。一瞬にして空気の色が変わった気がした。

 気の済むまでしばらくそうしたあと、三井は白線を越え、まっすぐに前を見据えながら恩人のもとへと足を踏み出した。

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