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​命の理由

 よく食材を買う店の爺さんに、孫が生まれたらしい。男の子だ。懐から大事そうに写真を取り出したその店主は、皺だらけの目尻をくしゃくしゃにしながら「ウチのばぁちゃんは大丈夫なのに、俺が抱っこしてやると泣くんだよ。なんでかねぇ」と嬉しそうに笑った。

「八戒、先に帰っててくんねぇか。ちょっと寄るとこ思い出した」

 怪訝そうな顔の八戒を見もせずに、悟浄は一人、街の奥へと歩いて行った。
 寄る所なんてない。今日はなんとなく、家に帰るのが躊躇われた。なんとなく。しかし夜も更け、容赦なく身体を刺す風が辛い。少しカッコ悪いがそこまで遠回りせずに帰る事にした。
 11月なんて早く終わればいいと思っている。寒いのが元来苦手という事以外に、子供の頃に薄いしなびた毛布でガタガタ震えて眠れずにいた事や、義母が兄に作った温かい手料理を、部屋の隅から見上げていた事を思い出すから。自分がぬくもりというものと縁のない事を、特に強く思い知らされる季節だったから。あとは、誰にも必要とされない自分が生まれた季節だから。悟浄は残り少なくなった煙草に火をつけた。一瞬のぬくもりと嗅ぎ慣れた匂いだけは、相変わらず自分を癒してくれた。

 今日は、 いつもと同じように過ごすと決めていた。朝に八戒が何か言いたげな顔をしていたが、悟浄はあえて気付かぬフリを決め込んだ。
 どうして生まれたのか。子供の頃から飽きるほど考えた。意味なんてないように思われた。誰かに求められている訳でもなかったし、考えるだけ無駄だったのかもしれない。かといって、命を投げ出す事は怖くて到底できなかった。だからどんな目に遭っても、望みのない愛に縋り続けた。いくつ年を重ねても出ない問いの答えは、生きる事でとりあえず先延ばしにした。

 そんな悟浄が生きている事を実感するのは、例えばいい女と繋がれた時がそう。あとは特にない。何も残らない、何も背負わなくていい生活が長かったから、何もなくても寂しさを感じた事はなかった。兄がいなくなったあの日から、悟浄のそばには誰の姿もなかったし、誰も自分を待っていてはくれなかったので。

 いつかジジイになったら可愛い孫でも待っててくんねぇかな、 まぁ先にいいオンナ探すのが先ってか──いつもの自虐で自らをたしなめた。
 すると悟浄はふと、家の前で待つ同居人の姿をみとめた。思わずその場に立ち尽くすと、何かで覆われていた思いが堰を切ったように溢れた。


 生きたい。生きたい。生きてもいいのなら。どうして生まれたのか、答えがあるなら感じてみたい。この赤い髪と赤い瞳にも意味があるのなら、それを感じたい。もはや姿かたちのない義母にも、自分を置いて逝ってしまった実の両親にも、いつか心の底から笑いかける事ができるなら。何年かかっても、何度この日を迎えても。

 同居人は歩み寄ると、軽く首を傾げて少し困ったように悟浄の顔を覗き込み、優しく微笑んだ。

「おかえりなさい、悟浄」

 生きる事は、こんなにもあたたかい。

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