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ベストアンサー

 さて、どうしたものか。私が彼の担当編集になって随分経つが、これほどまでに進捗が芳しくないのは久々だ。彼はトントンと原稿のマスを叩いていた鉛筆を放ると、何をするでもなく部屋を歩き回り、灰皿に押し付けたそばから新しい煙草を取り出し、原稿の端々に意味不明な物体を幾つもしたため始めた。彼が原稿に行き詰まった際にありがちな現象ではあるが、その眉間に刻まれた皺は思いのほか深い。しかし、「最終〆切」と称した日時は通常よりもだいぶ早めて伝えてある。我ながらその判断を褒めたい。
 それから数日後の、彼にとっての最終〆切の前日。彼はいつもの部屋で机に肩肘をついたまま、原稿に目を落としている。指先には静かにじりじりと燃える煙草。分厚い眼鏡の奥の瞳はやや虚ろだ。背後から手元を覗き込んだ私は、机の右端に纏められた完成原稿の少なさに、聞こえぬぐらいの溜息を吐いた。
「先生、明日がデッドですが」
 彼は数秒かけてゆっくりと私を見上げた後、表情を変えることなくぼそっと呟いた。
「…どうにかなりませんか」
「…なりませんね」
 本当はまだ余裕があるのだけれど。
 彼をこれ以上甘やかしてはいけない。作家とて一端の社会人、期日厳守という概念をもっと意識してもらわなければ。…私もただの会社員。いつまで彼を担当できるか分からないのだし。
 すると、彼は私にこう問うた。
「…いつになるか分からないものを、貴方はいつまで待ち続けられますか?」
 芳しくない原稿の進捗に対し、担当者としての辛抱強さを試されているのだろうかと、一瞬答えに逡巡した。しかし、遠くを見るような彼の瞳にその考えは霧散した。待っているのは、彼のほうだ。
 頭をよぎる、一人の影。
 

 その人物の存在は、先生がこの家に移り住む以前から把握している。原稿を受け取る為に訪れた、古びたアパートの一室にその人はいた。窓際で黙々とペンを走らせる先生の周りで、足の踏み場もない部屋をせっせと片付けるタンクトップの精悍な男。この巣窟に用がある人間が私以外に存在したことにも驚きだったが、その見た目によらず整理整頓は得意なようで、テキパキとそこら中に散らばった原稿や書類をまとめたり床に積まれた大量の書物を本棚に戻したりと、その所作は随分手慣れているようにも見受けられた。その男は玄関でドアを開けたまま呆然とする私に気付くと、ぶっきらぼうに言い放った。
「あぁ、コイツの担当さん?掃除はしといたからよ、とりあえず上がれば?」
 自宅に客人を招き入れるかのような口ぶり。
「あー汗かいた…風呂借りるぞ天蓬ー」
 先生の返事も待たずに押入れのプラスチックケースから何かを取り出し、浴室へ向かう。バスタオルと…下着だ。先生のそれを借りているとは言い難い。ならば、下着を常備している間柄…。
「(なるほど、そういう…)」
 のちに先生から聞いた話だが、現在その彼はカメラマンとして世界中を飛び回っており、滅多に便りも寄越さないのだという。それでいて、彼の気配が残るこの部屋に移り住んで再会を待っているのだから、日ごと思いが募るのも無理はない。
 それでだ。先程の問いに、私はどう答えるべきか?
 まるでタチの悪い哲学。静寂が進めば進むほど、答えのハードルは上がっていく。しかし生憎、私には狂おしいほどに待ち焦がれたり、会いたさを募らせ眠れなくなる相手がいる訳でもない。
 呼び起こしてみる。あのアパートを。あの彼の姿を。彼に背中を任せるような、先生の後ろ姿を。
……。
「自分が相手を信じられるのなら、いつまででも」
「…」
 かろうじて絞り出した答え。ではおまけに、出来うる限りの冗談と皮肉をしたためるとしよう。
「ですので」
「…?」
「明日原稿を頂けるまで、先生のお部屋に居座ります。先生を信じていますので」
 そう告げた時、彼の片眉がぴくりと動くのを私は見逃さなかった。そして、
「がんばりますよ」
 そう呟いてから再び机に向き直ったのだった。
 私の安堵の溜息は、聞こえないように。
「(全く、この人は…)」
 いつもそうやって、私を悩ませる。

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