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空と焦がれて
主人公の最後の台詞を括弧で閉じ、青空を見上げる仕草を綴った文末に句点をしたためたところだ。天蓬はすっかり先の丸くなった鉛筆を放り出すと、両手を上に組んで大きく伸びをした。机のすぐ隣の窓を見やると、外の闇がやや薄らいでいるのを感じた。
今回の原稿も徹夜仕事になってしまった。実は担当の永繕には〆切を二度も延ばしてもらっていたので、
「明日原稿を頂けるまで、先生のお部屋に居座ります」
と強く念を押されていたのだ。筆の進みの悪かったこの案件を乗り切り安堵しながらも、進捗にムラがある執筆者の特徴を予測し、二度〆切を延長しても入稿に支障のないスケジュールを組んでいた彼の優秀さと自分の信用の無さに自嘲の笑みがこぼれそうだった。
ふと感じた喉の乾き。天蓬は暗がりの中、古びて軋む階段をゆっくりと降りる。暑さが幅をきかせていた季節は過ぎて、朝晩はもはや身を縮こませるほど。掌をこすり合わせ、早朝の冷え冷えとした空気を受けながら行き着いた居間には、まだ誰の姿もなかった。
薄暗い台所でコップ一杯の水を飲み干す。身体が潤っていくのが分かる。やや満たされてひとつ息を吐くと、何の気なしに縁側をそうっと開け放った。
この身を包む冷気。思わず身震いしながらも、夜を超えて気怠さをまとう身体にはどこか新鮮で心地よささえ感じた。ほのかに赤みがかる東の空の燃えるような赤と、まだ目覚めきっていない青さが美しい。…今日は雨になるのだろうか。
そうやって空を染めている太陽は雲にその身を潜めている。世界にたった一つの太陽。
ー …貴方もどこかで、同じ太陽を見ているんですか?
たまに届く手紙以外では知る由も無い、彼の現在地。聞いた事も、場所も知らないような国にいるなんて事も珍しくない。
ー あぁでも、地球の裏側だったら今は夜か…
そんな事を思いながらいつもの煙草に火を付け、澄んだ空気に静かに煙を吐き出した。
帰りの報せをこれほどまでに待ち侘びている人間が家族以外にいるのだという事を、彼はきっと知らない。
「待たせすぎですよ、本当に…」
赤い朝日が少しずつ姿を現して、天蓬の白い頬を染めていった。
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