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どうぞ、お好きに

「僕は先に寝ますね」‬
 ‪晩酌をする悟浄にあまり遅くならないようにと釘を刺してから、八戒はリビングの食卓から席を立った。

 新しい訳ではないこの家屋、連日の長雨によってついに悟浄の寝室が雨漏りしてしまう事態に陥った。修繕を依頼した悟浄の知人は明日来てくれるというので、ソファで寝るから僕のベッドを使うようにと八戒は告げたが、‬
‪「2人で寝りゃあいーじゃん。狭ぇけど」‬
‪ と、恥ずかしげもなく悟浄は言い放ち、固辞し続ける八戒を結局説き伏せてしまったのだった。‬
‪───悟浄が僕のベッドに?正直、それは困る…‬
‪「んだよ。野郎襲ったりしねぇから安心しろ」‬
‪ 冗談めかして言う彼の言葉に貼り付けた笑みを向けて、寝室のドアをそっと閉めた。‬
‪「…好きにして、いいのに…」‬

‪ ドアに背を向け、毛布を頭まで被る。先に寝るなどと言ってはみたものの、当然できる訳もない。全く、人の気も知らずに勝手な事を言ってくれる…いつ悟浄が同じ毛布に潜り込んで来るのか気が気でない八戒は、胸の高鳴りを押さえつけるように大きく息を吐いた。‬
‪ あの紅い髪や瞳、疎ましかった筈の煙草の匂いでさえ愛しく感じているのに気付いたのは、いつだっただろうか。この平穏な日々を維持する為、自らの思いを錯覚だと上手くごまかしたり、彼は男の自分になど振り向く筈はないと勝手に諦め、思いを振り切るのに毎日必死だった。
 それなのに。‬
‪───これは罰だ。諦める事も吹っ切る事もできない、中途半端で曖昧な僕への報いだ…‬
‪ 瞼がいつの間にか光を遮断し、暗闇が誘なう深い眠りへと落ちていった。‬

 ギシッと軋む音で呼び戻された八戒の意識は、すぐ傍で感じる自分のものではない温度によって、はっと引き締められた。悟浄はもう隣で眠りについていて、すうすうと寝息を立てている。さっきの音は彼が寝返りを打ったか何かだろう。彼がどんな格好で、どんな寝相で、どんな寝顔をしているのか、確認してみたい衝動に駆られたが、彼とこんな所で目が合ったりでもしたら、きっと平静を装えないだろうという自信が八戒にはあった。‬
‪「(だけど、少しだけ…)」‬
‪ 彼への愛おしさ、そしてむくむくと湧き上がる好奇心だけを糧に、できるだけベッドを揺らさぬよう身体の向きを変えてみる。しかし、その途中で八戒は後悔した。‬
‪ こちらを向いて眠る悟浄。紅く長い髪がその端正な顔に流れ落ちて、より艶を放つ。微かに開いた唇はあまりに無防備だ。漏れ出る色気に、今すぐそれを塞いでしまいたい欲望をぐっと堪えなければならなかった。‬そしてその逞しい身体付きは、男の八戒ですらその身を預けたいと思ってしまうほど。彼が夜を共にした数多の女性達への嫉妬がふと湧き上がるが、ぐっとそれを掻き消した。
‪ 八戒が何をするでもなく(正確には、"出来るわけもなく")その寝顔を見つめていると、俯せになりたいのだろう寝返りを打った悟浄の腕が八戒の肩にふいに触れた。‬
‪「んー…」‬
‪ まずい、起きてしまう。予期せぬ彼の動きに、反射的に寝たふりでやり過ごそうと固く目を閉じる。布が擦れる音が少ししたのち、再び訪れる沈黙。‬
‪「(起きては…いないですかね…?)」
 恐る恐る瞳を開いてみるその様は、さながら絶体絶命のピンチを免れた主人公。だが、またも後悔が全身を覆う事となる。‬
‪ 悟浄がこちらを見つめているのだ。見透かすような瞳と、やけにニヤついた笑みで。‬八戒は目を逸らす事も言葉を発する事も出来ず、肉食動物に睨まれた小さな生き物のように、ただ黙っているしかなかった。‬
‪「…はよ」‬
‪「ま、まだ夜中ですけど…」‬
‪「そーだよなぁ、八戒ちゃん寝付けないんだもんなぁ?」‬
‪ そう揶揄われるうちに頬が熱くなるのが分かる。こんなに近くで、しかも同じベッドで会話をしている。困惑と動揺が抑えられない。その反面、幾多の夜を経て培われた悟浄の余裕の笑みが、なんだか悔しいし何より気にくわない。‬
 そうしているうちに、自分だけが恥じらっている事、自分だけがまるで心臓に悪い目に遭っている事が、なんだか馬鹿馬鹿しく思えた。八戒はいつもの冷静な表情を見せて言い放った。
「…僕がここにいると貴方も寝られないでしょう?やっぱり僕はソファで…」
「えー、今更一人で寝れるワケー?」
 ベッドから去ろうと上体を起こした八戒を引き止めるように、悟浄が挑発する。
「またそうやって人をバカにして…大体、男二人でこんな狭いトコロで一緒に寝ようだなんて、どういうつもりですか?」
「どういうつもりも何も、ソファよりはベッドのほうがいいじゃん誰だって」
「そうですけど!…ダメですよ」
さっきまでの勢いはどこへやら、顔を背けた八戒だが、腕を強く掴んだ悟浄の熱い眼差しに思わず息を飲んだ。
‪「そうでもしねぇとお前…こっち来ねぇだろうが」
そう言うとその腕の中に八戒を抱き寄せ、その焦茶色の髪をくしゃっと撫でた。‬
「…ご、ごじょ…?」
 一瞬で悟浄の胸に閉じ込められた八戒。思いを寄せている相手の胸に、だ。まるで事態を飲み込めない。冷静さを取り戻そうとする頭とは裏腹に、真近に感じる彼の速い鼓動のせいで自らの熱が上昇するのがありありと感じられた。
「お前さ、分かりやすいんだよ…最近変に避けたりすっから余計によ」
 八戒の髪を優しく撫でながらぼそっと呟く。こんな言葉をこんなシチュエーションで発せねばならないのが不服だと、そんな意味も込められているように感じられた。
「気付かれてた、って訳ですか…」
 完璧に演じ切っていたつもりだった八戒は深い溜息を漏らし、己の浅はかさを恨んだ。
───気付かれていたのは百歩譲って良しとしても、その事実すら僕は分からなかったなんて…
「俺の目を欺こうなんざ百年早ぇっつの。こんだけ同じ家に住んでて気付かねぇほうがおかしいわ」
 いたずらっぽく笑って見せる悟浄に、全く取りつく島もない。
「…ま、告る手間が省けたっつーか」
「え?」
 胸に埋めていた顔を上げれば、こちらを見下ろす悟浄と丁度目が合った。彼は意図せず上目遣いになった八戒に動揺し頬を紅潮させている。
「"え?"じゃねぇよ、察しろよ!」
「と、言いますと?」
「……あああ〜もう!ホンットいい性格してんなオメーはよ!」
 悟浄がバタバタと動くせいで、毛布が暴れ出して二人を露わにした。途端に互いがおし黙り、一瞬よぎる静寂。吐息が頬にかかる距離で、見つめ合う二人。
「…キスしていい?」
「ちゃんと気持ちを伝えてからじゃないと、後々トラブルのもとですよ?」
「へぇ、そういうの欲しいタイプなんだ?」
 少し考える様子を見せてから、八戒は乱れる前髪の隙間から笑みをこぼした。
「…どうぞ、お好きに」

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